この墓はもともと地上にあったが、幕府のキリシタン弾圧が厳しくなり、発覚を恐れて地中深く埋められたものですが大正初期に偶然発見されました。 天正年間キリシタンの志賀親次が領主だったころ志賀の領内にはおよそ8,000人のキリシタンがいたそうです。
凝灰岩の伏墓で長さ180センチ、幅86センチあり、直径30センチの花十字 「るいさ」という洗礼名と「元和五年五月廿二」の歿年月日が彫られている立派なもの 長崎県下にある多くのキリシタン墓をはるかにしのいでいるそうです