三隈川




潮をほしたタカ
むかし、むかし、そのまたもうひとつ、むかし、この天地に、人間がまだ、あまりすんじょらんころの話じゃ。
日田ん地は、あふるるばかりの水をたたえた、いちめんの湖じゃったげなち。
ぐるりをとりまいたけわしい岩のがけや、大きな山やまには、松やカシワの木が、みどり色にしげり、そのかげをうつした湖は、いつもあおあおとした色をしちょったそうな。

この湖に、あるとき、どこからか知らんが、一わの大きなタカがとんできた。タカは、湖の水にはねをひたして、しばらくやすんじょったが、やがてはねをばたつかせてとびあがり、湖の上を三かいほど舞ったかとおもうと、そのまま、朝日の光にまぎれて、天のかなたへとびさってしもうた。
そうしたら、いったい、なにごとがおこったんじゃろうか。
ものすごい地なりと地ひびきがはじまり、まあだ朝というに、あたりいちめん、夕方か夜のようにくろうなって、湖の水が、ゴウゴウ、ドロドロ、すごい音をたてよったげなち。

波は、茶色になってさかまき、がけや岸にあたってくだけ、水けむりがたかくあがっち、空をいっそうのこと、くらくしたというこつばい。
やがて、波のあらさをとめきらんで、西南のがけがはげしい音をたててくずれおちた。湖は、きゆうにそちらへかたむいて、水がドゥドゥとおち、とうとう湖は、かれてしもうたげなち。

こうして、ながれた水のあとは、一本の川としてのこるだけになった。湖の底にあらわれた平野の中に、ふしぎなこつに、三つのこだかい岡があったそうな。その岡は、いまも日田ん地にのこっちょる、日の隈、月隈、星隈の岡ばい。これは、天に、日の光、月の光、星の光の三つの光があるこつから、こん名がついたといわれちょる。

日田ん地の名まえも、タカがはねをひたしたき(ひた)というごつなったとか、日とタカから(日鷹)とよばれたとかいうばい。
いまでん、日田ん朝の底霧は、天気の日でも、あたりいちめんうすぐろうなって、人のすがたもよう見えんほどじや。まるで地の中からわきだしたかのように町や村をおおい、山ん上から見ると、ちょうどむかしの湖とそっくりのけしきんごつあるらしい。

のちに景行天皇がこの日田をとおられたとき、南のほうの上野という高台で、旅のつかれをやすめられたそうな。そして、上野の坂から日田の盆地を見おろされ、
「なんと、この地は鏡にそっくりじや。」と、けらいにつげたげな。
それで、いまでん、上野のその坂を(鏡坂)ちいうのは、そんときのなごりが、そのまま名まえになってのこっちょるといわれちょる。

底霧のでる朝、その鏡坂にのぼって日田ん町を見おろすと、ほんなこつ、まるい鏡のごつあるとばい。
     偕成社発行 大分県の民話より    (再話・谷本親史)


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