青の洞門 1

2009年3月11日



青の洞門  伝説

むかし、樋田から青(いずれも今は本耶馬渓町)へ行くには、岩かべにつくられた(鎖渡し)の道をわたらなければならなかった。
この道は、山国川の上にそそり立つ岩かべにそってつくられた道で、ここをとおるときは、岩かべにはられた鎖を命づなにしてわたっていた。それで、村人たちは、この難所を(鎖渡し)とよんでいた。
鎖渡しで、足をすべらせて、下の山周川におちて死ぬ人があとをたたず、だれもがこまっていた。

享保19年(1734年)のことであった。この鎖渡しのある岩かべに、ひとりの旅の僧が、衣のそでを背にむすんで、のみをふるいはじめた。僧の名まえは、禅海といった。
禅海は、もと越後(今の新潟県)高田藩の武士の子で、小さいころの名まえを福原市九郎といった。市九郎は10歳のときに父をなくし、母とふたり、江戸(今の東京)にでてくらしていた。

だが、父のいない市九郎親子のくらしは、みじめなものであった。母はやがて病気になってしまった。市九郎は病気の母のことはにも耳をかさないで、悪いなかまにはいり、けんかをしたり物をぬすんだりして、ついにはもののはずみから中川四郎兵衛という人を殺してしまった。
母は心配のあまり、とうとう、市九郎をのこして死んでしまった。
母の死で目がさめ、悪いなかまからぬけだした市九郎はこれまでの罪をつぐなうため、僧となって、国じゅうをめぐりはじめた。そして、この耶馬渓まできたとき、多くの人たちがこまっている(鎖渡し)のことをきいて、そのままとおりすぎられなくなったのだった。

 カッツン、カッツン……。
禅海のふるうのみの音が、耶馬渓の谷間にまい日ひびくようになった。
とおりがかりの村人が、「お坊さん、どうなさるんで……。」と、きいた。
「この岩をけずって、青にぬける道をつくるのです。」
このことばをきいて、村人たちは、耳をうたがい、顔をよせあった。
禅海ほそうした村人たちにかまわず、雨の日も風の日も、やすむことなく力をこめて、のみをふるった。

しずかに念仏をとなえながら、じぶんが殺してしまった、中川四郎兵衛への、罪のつぐないをしょうと、いっしんにほりつづけていった。
日ましに着ものは破れ、かみもひげも、伸びほうだいに伸びていった。
3ケ月、6ケ月と月日がたっていった。村の子どもたちがあつまってきては、あざけて石をなげたりしても、禅海はあいかわらず、手をやすめることもなく、じっと念仏をとなえながら、のみをふるった。
はじめは、わずかな岩穴であったのが、だんだんとふかく大きくなっていった。

それからまた、1年、2年、3年と月日がたった。花がさき、雨がふり、風がふき、雪がふりつもっても、禅海はいっしんにのみをふるいつづけた。
じっとひとりすわって、のみをふるう禅海に、いつしか、村人たちも心うたれ、
「あの坊さまは、えらい坊さまじゃ。」
「やあ、お坊さま、わしらもかせいさせてもらいます。」
といって、手伝う者がでてきた。石をなげつけたりしていた村の子どもたちまでも、「お坊さま、てつだいましょう。」と、岩くず運びをてつだうようになった。
やがて、26年の年月がながれた。光もまったくとどかなくなった岩穴のおくで禅海は、なおも、かすかな灯をたよりに岩かべをほりすすめていた。
そんなある日のこと、ひとりの武士がこの岩あなにやってきた。岩くずをはこんでいる村人に、「ちょっとものをたずねるが、岩かべをほっている僧は、福原禅海というものではないか。」と、たずねた。

村人から武士のことをきいた禅海は、暗い穴の中からでてきた。
年も60歳をこえているうえ、ひたすら岩かべをほりつづけたため、すっかり体がよわりきっている禅海にむかって、「禅海、わすれたか。
わしは、お前に殺された中川四郎兵衛の子、実之助だ。父のかたき討ち
にきた。かくごしろ。」と、武士がさけんだ。
このことばをきいた禅海は、「なんで忘れましょう。この四十年間、あなたの父上をころした罪に、いつも苦しんできました。その罪ほろばしのために、穴をほりつづけているのです。もうすこしです今、あなたの手にかかって死ぬのが本当ですが、あと三年、命をかしてください。この洞道ができましたら、いつでもあなたに討たれます。どうかおねがいします。」と、手をついてたのんだ。しかし武士は、「いや、ならぬ。かくごしろー」と、刀に手をかけた。
そばでようすを見ていた、跡田村の庄家喜作さんは、けんめいにふたりの中にはいると、実之助に、禅海の三年の命ごいをして、工事をつづけることにした。

実之助は、樋田村の庄屋小川家にとまって、禅海を見はることにした。
禅海は、このことがあってから、いっそうのみをふるう腕に、カをいれていった。まい日まい日、いっしんに穴をほりつづけた。村人たちも、禅海といっしょになって、けんめいに工事のかせいをした。
禅海を見はっていた実之助も、早くかたきを討ちたいいっしんから、たすきがけで、てつだいはじめた。実之助は岩穴をほることをてつだってみてはじめて、この洞道をつくることが、どんなにたいへんな仕事かということを、ひしひしとかんじるのであった。

 カツーン、カッ、カッ、カツーン……。
いっしょにのみをふるううち、禅海の真心が実之助のむねにひびき、身にこたえ、心のおくふかくまでしみこんできた。
実之助のふるうのみのひとふりごとに、禅海へのにくしみがうすらぎ、禅海とともに洞道をほりあげることだけに、力がそそがれていった。
こうして、ついに宝暦13年(1763年) の秋の夜ふけ、実之助がきてから3年めのことであった。禅海が岩かべにむかってのみをふるいはじめてからでは、およそ30年の月日がすぎていた。

やせおとろえた禅海のうったのみのさきに、ぽっかりと小さな穴があいた。その穴のむこうに、月あかりの中から、山国川のしずかなながれが、禅海の目にはっきりとうつった。
「うううう………。」
30年間の苦しみと喜びが、心の底からわきでるような声となって、禅海の口からしぼりだされた。
禅海は、30年間という月日をじっとかみしめるかのように、しずかに目をとじた。

やがて、目をひらいた禅海は、「中川さま、見てください。やっとほりぬくことができました。」と、いいおわると、実之助の手をしっかりとにぎりしめた。実之助も、禅海の手をにぎりしめた。
にぎりあった手に、ふたりの涙がながれおちた。
にぎりしめたふたりの手から、憎しみも、苦しみも、悲しみも、すべてが山国川のながれの中に、ながれさっていった。

こうして、30年にわたる禅海の血のにじむような努力によって、青の洞門は開通した。

それからのち、ここをとおる旅人も村人も、あのけわしい鎖渡しをわたることもなく、行き来できるようになった。


       偕成社発行の大分県の民話より



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