田の浦 2




瓜生島とえびすさま

むかし、豊後湾(別府湾)には、いくつもの島じまがうかんでおった。中でも瓜生島はとりわけ大きく、すがたかたちのととのったうつくしい島で、ふるくからさかえとった。
室町のころ(14世紀末から約200年)の島は、豊後でもゆびおりの港にかぞえられ、とおくは唐からやってくる船もあって、たいそうなにぎわいじゃった。島にはとうじ、12の村むらがあり、家は数千をかぞえたという。島長、幸松勝忠のりっぱなやかたを中心に、三条の大通りがひらけ、さまざまな店がならんだりしておった。

島の人たちは海の幸、山の幸のめぐみをうけ、くらしにこまるものもなく、それはのどかであった。あらそいごとなど、見たくても見られない。それというのも瓜生島には、だれがいいだしたものか、ふるくからふしぎないいつたえがあったからだ。
「この島にすむものはみな、なかようしなくてはならん。ひとりでもいさかいをおこすものがいると、島じゅうの神仏がいかって、島はたちまち海にしずんでしまう。そのときには、蛭子社のまもり神であられる神将の顔が赤くなる。」と、いうのじゃ。
島長は代だい、信仰心があつく、島にはたくさんの寺や神社があった。蛭子社はそのひとつで、島の人たちから朝に晩におがまれていた。
いいつたえはどこの家でも、親から子へと、代だいかたりつがれ、まもられてきたから、けんかがはじまりかけても、「はよやめんか。えべっさまの顔が赤うなるぞ。」のひとことで、あらそいごとはぴたっとおさまるのだった。

ところが島のはしの申引村に、このいいつたえを、頭からばかにしてかかる男がおった。医者で、名を加藤良斎といった。
「神仏がたたるじゃと。なにをいっておるか。これほど大きな島じゃ、しずむわけがないではないか。」
良斎はだれはばかることなく、いいふらした。島の人たちは気が気でない。
「そげんなことをいうちょると、とんでもない神ばつがあたるぞ。」
と良斎をいさめたが、良斎はどこふく風。

良斎はある晩、こっそりと蛭子社へでかけていくと、社にまつってある神将の顔を、ふところにしのばせてきたべにがら(黄土をやいてつくる赤い顔料)で、まっかにぬりつぶしてしまった。
あくる朝、おまいりにいってこれを見つけた島のじいさまの、おどろいたこと。
「大ごとじやあ! えべっさんの顔が赤うなっちょるぞぅ−」
大あわてで島じゅうに知らせまわった。
「たいへんなことになってしまった。なにごともおこらねはよいが……。」
「島がしずまんうちににげださねば……。」
島の人たちの中には、道具をまとめはじめるものもあった。
だが、3日たっても4日たっても、島にはなにごともなかった。半月たってもなにごともない。
海のようすもいつものままじゃった。なにごともないとわかると、
「蛭子社の神将を赤くぬったのはわしじゃ。わしがためしてみたのよ。ほれみい、ただのいいつたえじゃ。島はびくともせんではないか。」
「神ばつじゃと。どんな神ばつがあたるか、見たいもんじゃのう。」
ぎやくに、あざけりかえすしまつじゃった。
良斎は、神ばつがあたるといさめた島の人たちのまえに、むねをはった。だが、島の人たちは、「このままですめばよいが、まだなんともわからんぞ……。」くらい顔をよせあつめて、ささやきあった。

島の人たちのしんぱいは、ほんとうになってしまった。良斎が蛭子社の神将の顔を赤くぬりつぶしてから20日あまりたったある日、島にはめずらしい地震があった。地震はつぎの日も、そのつぎの日も、島をゆすった。それだけではない。ぶきみな地なりがなりやまなかった。
「こん地なりはただごとではないぞ。いいつたえはやっばりほんとうだったんじゃ。神さまんいかりのまえぶれにちがいねえ。こりゃいそがにゃあならん。」
島人の中には、はやくも舟でにげだすものがあった。地震と地なりは、日ましにはげしくぶきみさをくわえ、ついに大ゆれにゆれつづけるようになった。
ごごごごごごう……。
石垣がくずれ、家がつぶれ、大木がたおれた。あれほどしずかだった海も、うずたかい波がさかまいて、あれくるっておる。
「わあーっ、由布や御宝山(鶴見岳)が火をふいちょるぞー」
空はまっかにやけ、やけただれた大きな石が、音をたてて島にふりそそいだ。この世のものとおもえんありさまに、島の人たちは島をのがれようと、大あわてにあわてふためいた。

夕ぐれどきになって、地震も地なりも、こころもちおさまりかけた。そのときじゃ。白い馬にまたがった老人があらわれて、「島がしずむぞう。一刻もはようにげいー」
大声でふれまわった。神仏のつかいだったにちがいない。島にのこった人たちは舟にはしり、海にとびこみ、府内(大分市)や日出の町へと、いのちがけでのがれていった。われさきにのがれる人たちの中に、あの良斎のすがたもあった。しかし、海はたけりくるって、良斎の小舟をたちまちうちくだいてしまった。

やがて、はるかかなたから、海なりとも地なりともつかない音が、たかまったかとおもうまもなく、山のようにもりあがった大津波が、ひといきに島をのみこんでいった。
一夜があけた。
豊後湾はなにごともなかったように、おだやかな波をきらめかせていたが、瓜生島のうつくしい島かげは、どこにも見あたらなかった。

瓜生島をおそったこのできごとは、慶長元年(1596年)、7月12日のことと、きろくされている。
        偕成社発行 大分県の民話より   (再話・園部秀靖)


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