吉野梅園2




臥竜梅由来
建暦年中、禁裡守護の士に、藤原信近という人があった。信近は堀川騒動の際、都を落ちのびて、豊後国芳野の里(大分市吉野)に移り住んだ。
信近の子の近里という人は若いころから信心深く、父母に孝養をつくし、近隣での賞められ者だったが、ある時、山で薪を切っていると、突然激しい風が起こり、折れた木の枝が右足の脛に当たって骨折するという災難にあった。
いろいろと手当てしてみたが、治る見込みはなく、とうとう足が不自由になってしまった。

近里は悲嘆にくれ、毎日部屋にとじこもりむなしく過ごしていたところ、ある夜、夢に見知らぬ白髪の老人が現れ、「汝常に神仏を信仰せるは殊勝の至り、今我汝に教えん。筑前国太宰府は菅相公の神去りたまう霊地なり。汝この地におもむき、賽篭祈願せば足疾必ず癒えん。ゆめ疑うことなかれ。」とのお告げがあった。近里は大いに喜び、さっそく父にいとまを申し出て、三十里の道のりを杖にすがって出立した。建久二年の冬のことである。

二十日あまりもかかって、太宰府天満宮にたどりついた近里は、寒垢離して十七日間の断食を決意し、一心に法華経を唱えながら病気平癒を祈っていると、七日目の夜、夢ともうつつともなく、一人の気高い宮人が枕元に立ち、「汝が痛いは前世の宿業なれば、我に祈るも容易に治し難し。しかれども汝誠意をもちて法華経を諭すを聞き、我も生前常に法華経を諭し居りたれば、今汝の妙音を聞きて歓喜余りあり。かつ汝は孝心深き者なれば、今一度の平癒を免ずべし。これは我常に愛するところの梅なり、この一枝を汝に授く。速く古郷に立帰り、朝夕これを拝み我と思うべし。必ず親に孝行怠ることなく、人の人たる道を守るべし。然る時は難病平癒疑いなし。」と、告げられた。

近里は、夢から覚めて神前を見ると、一枝の梅の花が置かれてあった。
(さてはこれこそ夢の中で告げられた梅であろう。菅公が私をふびんと思われて授
け下さったのか)
と、三拝九拝し、夜が明けると、さっそくその枝を紙に包んで、芳野の里に持って帰ることにした。

家に帰りつき、父にこの旨を話し相談して、山口の里に清浄な地を選び、そこに一間四方に石を並べて、その中に梅の枝を挿し、神酒・供物などを備えて、朝夕祈念していると、やがてその枝から根が生じ、青々と生長をはじめ臥竜の形に繁茂した。そして、その生長とともに、近里の病気も平癒していった。

このことは、たちまち近隣の村々に知れわたり、老若男女の参詣する者数知れず、流行病・難産などに、この梅の葉を水に浮かべて服用すれば効果があるなどと、噂は噂を呼んで、芳野の里は連日市をなす盛況であった。
永禄三年(1560年)正月、噂を聞いた大友義鎮(後の宗麟)は、供の者数十名をひきつれて、この地を訪れた。ちょうど梅は満開で、義鎮は花の下に宴席をもうけ、詩歌を詠じたり、短冊をしたためたりして、酒を汲みかわして興じていたとき、饗応役の鶴ヶ城主利光越前守が、「まことに美しき梅花ゆえ、ご帰城の折に一枝持ち帰り、挿花にいたしましょう。」と、用人油布弥太郎に申しつけた。
弥太郎が、短刀で一枝を切り落としたところ、どうしたことか、即座に気絶してしまった。

人々は驚いて、水よ薬よとあわてふためいていると、弥太郎は突然立ち上がり、切りおとした枝を手に捧げながら、大声で、「我は即ち正一位天満宮なり。この梅を尋常のものと思い、玩弄物となさんとするは許すべからず。されど、汝はこの土地の大主なるが故に命は助けてとらするが、今後この梅の小枝なりとても手折るものあらば、忽 命を絶つべし。」と、四方をにらみつけて叫んだ。

義鎮は、この様子を見ると、たちまち地に伏して、梅の木をふし拝み、「知らぬこととは申しながら、家来の者どもの不心得にて、神樹を傷つけし段恐れ入り奉る。お詫びのしるしに、切り落としたるこの枝にて尊影を刻み奉らん。なにとぞ怒りを晴らし給え。」と、祈念したところ、物に憑かれていた弥太郎は、ようやく本心にたち返った。

義鎮は、約束どおり梅の枝で尊影を刻み、それを本尊としてこの地に一宇の宮殿を建立し、二丁四面を無税とし、供米として年々三石二斗を寄進することにした。

即ち梅の木天神(吉野天満宮) である。
神主には、油布弥太郎が任命された。弥太郎は、由(湯)布院竹本村の出身である。
彼は神官となってから、藤原信近の姓を取って、油布志摩守藤原信行と改名した。


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