大きくカーブした堅田川

2005年7月18日

鬼ケ原の幽霊
佐伯市の岸河内地方は鬼ケ原とよばれて、昼でもうす暗く不気味なところである。天正14年(1586年)11月4日、薩摩島津軍の大将、土持次郎親信のひきいる2000の軍勢と、佐伯大膳正惟末の軍勢1800とが、ここ鬼ケ原ではげしく戦って、薩摩軍はひとりのこらずほろぼされた。

戦いが終わって何年かたったころ、この鬼ケ原にゆうれいがでるといううわさが広がった。人々は気味わるがって、だれひとりとして鬼ケ原に近づく者はなかった。

ある若者が、ゆうれいのうわさをつきとめようとして鬼ケ原に出かけたが、次の日、死体となって川にうかんでいたという。

それを見たとなり村の若者は、「おれが、ほんとうのことをつきとめてやる。」と言って、両親や村人のとめるのも聞かずに鬼ケ原に出かけていった。鬼ケ原についた若者は、雨風にさらされて気味わるくころがっている頭がい骨を二つ見つけた。若者は、「これがゆうれいの正体じゃあ。こうしてやる。」と、その頭がい骨を竹でたたいて足でふみつけた。若者は、ゆうれいの正体を見たという喜びで、いばって家に帰ってきた。

ところが、家に帰ってから急に高い熱が出て、わけのわからないうわ言を言いながら、その日のうちに死んでしまった。このことを聞いた人々は、いっそうおそろしがって、夜も安心してねむれなくなってしまった。

その若者のうわさが、芦刈八郎兵衛の耳に入った。八郎兵衛は庄屋で、年は40才ぐらいであった。でっぶりと太って、きもったまの太い男であったが、たいへんやさしく情けぶかかった。八郎兵衛は、若者を死なせた両親をあわれに思って、となり村まで出かけた。たったひとりの子どもを失った両親をなぐさめているうちに、いつしか夜もふけてしまった。
若者の両親が心配して、「こげえ、おそうなってしもうた。もう、とまっち帰りよ。」と言うのをことわって、八郎兵衛は夜道を帰りはじめた。

道といっても雑草が生いしげり、こんもりとした林が八郎兵衛におそいかかってくるようであった。そのうえ、その林のどこからか、フクロウの鳴き声が不気味にひびいてきた。

さすがの八郎兵衛も、身も心もこおるような思いであった。どうしてとまらなかったかと、今になってくやんだが、もうおそかった。八郎兵衛は、音をたてないように、あたりをうかがいながら歩いていた。
そのとき、なまぬるい風が首すじをすうっとなぜていった。ぞうっとしてあたりをながめまわした。まわりはまっくらやみである。フクロウの気味悪い声と、どこかで川の流れるかすかな音が聞こえるだけであった。

ふと、前方に、青い火が二つ燃えあがった。その火は、だんだんと燃え広がり、八郎兵衛に近づいてきた。そして、その青い火は燃えあがるたびに、岸河内の千人塚の道しるべ「トッタ、トッタ。」と、うめくような声を出した。
八郎兵衛は、全身の力がぬけて、そこにすわりこんでしまった。青い火は、八郎兵衛をとりまいた。「トッタ、トッタ」 の声は、急に、「ワーツ、ワーツ。」というさけび声に変わった。青く光っている火の中から、たくさんの刀と刀がきりむすぶ音がはげしく聞こえてきた。死んだようにうずくまっている八郎兵衛の上に、とつぜん、天を切りさくようなけたたましい音がひびきわたったかと思うまもなく、八郎兵衛の体が、すうっと宙にういた。

ポッリボツリと雨が降ってきた。川原に、死んだように横たわっている八郎兵衛の顔にも降りかかった。ふと気がついた八郎兵衛は、ゆうべのおそろしいできどとを、ぼんやりとした頭で思い出していた。

「なんちゅうおそろしいこっちゃ。あの青い火は、鬼ケ原の戦いで殺された薩摩軍の2000の兵のたましいがさまよっているにちかいねえ。 こりゃあ、はよう供養塔を建てにゃ。」八郎兵衛は、だるい体をおこし、足をひきずるようにして村へ帰り、さっそく、供養塔を建てる仕事にとりかかった。

やがて、りっぱな供養塔が建てられた。八郎兵衛は、てあつく薩摩軍のれいをとむらった。
それからは、もう、ゆうれいがあらわれることはなかった。鬼ケ原はむかしのようにしずかになり、人々は、安心して生活ができるようになった。

今も、この供養塔は、「岸河内の千人塚」として鬼ケ原にのこっており、おまいりする人があとをたたないという。
                     文・渕上 孝敏

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