山下池




大蛇の執心

昔むかし、現在の山下池と小田池の西に、もう一つ立石池という池があったそうです。
この立石池のすぐそばに、小さな庵寺があり、そこには立石坊という若い坊さんが独りで住んでいました。

立石は、仏道の戒めを固く守り、道心堅固、若いながらも有徳の僧として、里人の敬愛をうけていました。そして、立石自身もこのような人里離れた庵で仏道修行を志していることを、ひそかに誇りとしていたのでした。
立石は、夜が明けると、由布院の里に托鉢に出、日暮れに庵に帰ってからは、一心に読経するという毎日をくりかえしていました。

ある秋の朝のことです。立石がいつものように托鉢に出かけようとしますと、一人の娘が庵を訪ねて来ました。
娘は、こんな山里ではついぞ見かけたことのない美しい容貌で、身につけた着物も、都風の立派な衣装でした。
「愚僧にどのような用事でございましょうか?」
立石が尋ねても、娘は恥ずかしそうに下を向いて答えません。しかし、その瞳の色は、よほど何か重大な話があるのだとでも言いたげに、真剣に輝いて見えました。

立石は、じれったくなりました。
「愚僧は、これから里へ托鉢に出かけます。ご用でしたら早く申して下さい。」
娘は、それを聞くと、消え入るような小さな声で、とぎれとぎれに言いました。
「あのう…‥・是非ともお聞きいただきたいことがございます……托鉢からお戻りになりましてから、ゆっくり申しあげとうございます。それまでは、この緑の端にでも待たせていただけませんでしょうか?」「それは困ります。愚僧は仏に仕える身ゆえ、まことにお気の毒ですが、庵に女人をお人れすることはできません。夕刻改めてお越し下さいませんか?」

娘は、不服そうでしたが、立石にさとされて、しぶしぶ庵を辞して、どこかへ姿を消しました。
ところが、その日の夕方、立石が庵に帰ってみますと、朝ほどのあの娘が、ちゃんと庵に上がりこんで待っていました。そればかりではありません。夕食の用意までしてあって、膳の上にはあたたかいご飯がほかほかと湯気を上げていました。
「これはなんとしたこと!」立石は、開いた口がふさがらず、ただ茫然と立ちすくみました。

「お帰りなさいませ。」娘は、両手をついて、にっこりと立石を見上げました。その瞳と立石の眼が合った瞬間、立石の身体の中には、何かあやしい閃きが、稲妻のように駆け抜けました。そして、立石の心の中には、黒雲のようなものがむくむくとひろがったのです。それから後の立石は、魂の抜けたようになってしまい、すっかり人が変わって、ただもう娘の命ずるままに行動するあやつり人形のようになってしまいました。

娘は、こうして立石と一緒に庵で生活するようになりました。道心堅固だった立石は、もうすっかり生臭坊主になってしまい、娘の命ずるままに、里へ降りて托鉢をしては、いくぶんかの生計の糧を得てくる毎日が続きました。
娘は、毎朝托鉢に出て行く立石に、「外から帰って、私の部屋に入る時には、必ず戸を叩いてから開けるのですよ、黙っていきなり女の部屋に入るものではありませんよ。」と、口ぐせのように繰り返していました。
娘が、立石と一緒に庵で暮らすようになって、季節は秋から冬へと移り、やがて春がめぐって来ました。

ときたま庵の近くを通りかかる里人たちは、娘の姿を見かけて驚きの目を見はりましたが、相手が立石坊のこと、何か仔細があってのことだろうと、見て見ぬふりをしていました。

ある晩春の日暮れのことです。里人から少量の洒の喜捨をうけ、いつになく遅くなって托鉢から帰って来た立石は、日ごろの戒めをすっかり忘れて、庵につくなり、声もかけずに娘の部屋の戸をがらりと開けてしまいました。
中をのぞいたとたん、立石は、「きやつ!」と叫んで、のけぞりました。
あろうことか、部屋の中には娘の姿はなく、かわりに一匹の大蛇がとぐろを巻いて寝ていたのです。
立石の声に眼を覚ました大蛇は、みるみる娘の姿に変わりました。そして、歯の根も合わずにぶるぶる震えている立石に向かい、「ああ、なさけないこと、あれほど私がお願いしていたのに、なぜ声をかけてくれなかったのです。かように正体を見られては、致し方ございません。実は私はこの下の山下池に棲む大蛇でございます。立石さまの尊い道心におすがりして、畜生ながら来世は極楽浄土に成仏させていただきたいものと思っておりましたのに……」と、さめざめと泣いてかきくどきながら、一陣の風を呼び、あたりの草を巻き立てながら、恐しい形相で、髪をふり乱して飛び出しました。

立石が、我を忘れてその後を追いかけますと、娘の姿は再び大蛇と化して、しゆっしゅっと激しい音を発しながら、立木の間を縫って、峠を越え、山下池へ向かって這って行くのでした。
見ていた立石は、急に自分の身体が硬直していくのを感じました。大蛇の毒気にあてられたのです。立石は、驚きの目を見張ったまま、その場で石に化してしまったのです。

この石が、今も小田池の西方にある立石岩で、大蛇が越えて行った峠が蛇越峠だと言われています。

          おおいた文庫   大分の民話より


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