2008年11月23日
近年 話題の時代小説の舞台が佐伯ではないかと言われています。
主人公が秘剣を会得した「番匠川」や「船頭町」
「大手町」・・・小説での「相良文庫六万冊」とは「佐伯文庫八万冊」がそれではないかと・・・。
幕府ご禁制のキリシタン本なども佐伯文庫の蔵書に含まれていたそう・・・
今も昔の通りを残す町並みを歩けば、小説の世界に入り込んだ錯覚を覚えますよ。
12月3日から福岡の旅行社が佐伯に観光客を送り込むツアーを決定。
地元の船頭町も統一したのれんを下げたり 等身大の武士パネルを設置したりして
歓迎する事にしました。
四教堂塾が建てた佐伯文庫記念碑前に集合
佐伯文化会館中ホールで佐伯史談会発足50周年記念資料展が開催 佐伯文庫の貴重な本も展示されました。
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12月から福岡の西鉄観光がツアー客を募集して佐伯に来る予定コースが大体決まりました。
今回 その受け入れ体制作りの総仕上げとしてこのコースを廻ってみました。
8代藩主高標が天明元年(1781)に創設。長崎で買い求めた和漢洋書8万冊を2棟の書庫に納め、
1棟の書物奉行所を置いて管理させた。
10代高翰は文政7年(1824)8万冊の内から特に珍貴なもの約2万冊を選定して幕府に献上した。
幕府はこれを昌平校および紅葉山文庫に収蔵、高翰は馬鞍1領と時服を賞として賜った。
現在「佐伯文庫」の残存本は国立公文書館・内閣文庫・宮内庁図書寮・大分県立図書館などに収蔵され、
佐伯市には2778冊が保管されている。また中国に里帰りした漢籍483冊が北京大学・北京図書館に収蔵されている。
8代高標は安永6年(1859)大手門脇に藩校「四教堂」を開設、隣接して直心影流稽古場を開き文武両道の
教育を奨励した。家士は8歳から17〜19歳まで学習して官途に就き、その後も余暇の修業は40歳まで続いた。
四教堂の著名な教授:松下筑陰・明石秋室・中島子玉・高妻芳州・秋月橘門
武芸師範(直心影流・田村流居合・三神流剣術・源海流柔術 荒川流棒術・揚心流柔術・日置流弓術):
谷川源左衛門・山本四郎右衛門
文化2年(1805)藩は財制・法制を改めて3府(糾府・勘定府・米金府)を置き、財政を総括・出納簿を調整・
米金の収入を計理させた。
明治26年(1893)跡地に毛利高範が邸宅を造営、市民の社交場となり警露館と呼ばれた。
昭和14年頃、割烹池彦となる。
当時の御居間・土蔵・庭園などが残っている。現存の門は当時の三府御門ではなく、高範が
邸宅造営の際に天祐館(文久3年、三の丸下に造営された南御殿)の正門を移築したと思われる。
また戦時中の小規模な防空壕も残っている。
かって城下の内堀であった潮入川(現在は埋立てられ大手前公園の下になっている)を隔て
北側が大手門のあった城内、南側が船頭町であった。防備線となる両岸は武士の居住地、
大手前から船頭町へ向かう道が新道通りである。
浄土宗潮谷寺は慶長18年(1613)栂牟礼城下から現在地に移建された。6代高慶は前立阿弥陀仏を
納め本尊阿弥陀如来像を秘仏とした。また境内には高慶夫人を弔う浄修堂と地蔵堂がある。
慶長13年(1608)秀乗律師が開基。律師は讃岐の塩飽に住んでいた武将で藩祖高政と親しかった。
彼の遺臣たちが船頭町の商家になり、塩飽屋・潮屋・阿波屋・讃岐屋を名乗ったという。
船頭町の大火に再度類焼、現存する本堂・護摩堂・山門は江戸後期の建築で古色荘厳である。
本堂前の石像弘法大師像が迎えてくれる。
かっては裏ノ丁と呼ばれ、大目寺の門前町として商家の町並が形成された。
明治以降は中心市街地の歓楽街として賑わっていたが昭和5年の裏ノ丁大火で20数戸が焼失した。
京町と呼ばれるようになったのは後のことである。
類焼を免れた糀屋は元禄2年(1689)創業の老舗である。
大日寺住職が登城の際に乗った籠がお菓子の「たけばやし」さんのウィンドウに飾られています
嘉永2年11代藩主高泰公から頂戴した籠だそうです。
西谷小路から札場へ至る道筋で、北は高禄武士の居住地、南は豪商の居住地があった。
この通りから西を西町といった。
角にある表具屋の龍豊堂さん
この龍豊堂に毛利高標の書があります(20年11月29日撮影)
「渡し場」ともいう。久部・堅田方面への渡し舟の船着場。
現在住吉神社境内にある常夜灯はここにあった。
明治16年、久部村の内田善太郎が私財をもって池船橋を架けたが、洪水に度々流され、
そのつど架け替えられた。
明治26年「余が佐伯に住みて間もなく洪水出で、佐伯唯一の橋を押し流して、そのあとに渡し舟出来たり。独歩」
昭和31年、鉄筋コンクリート製の永久橋となった。
三輪荒物店さん前の伝馬船は国際交流員のトムさんが造った船です
高政開市以来、船頭町は度重なる大火に見舞われ、その都度町区画は再編され、
通りの名も変遷している。
現在の浜丁は明治22年大火以後の町並みで、長屋造りの町屋などが現存している。
◎住吉大楠(六本松磧・魚市場跡)
旧住吉神社境内にあった樹齢200年の大楠、万年橋のあった内町川は戦後埋立てられ、
幹線道路の建設で住吉神社は移転、この楠だけが道路の真ん中に残された。
川(幹線道路)向こうは向島と呼ばれ、寛永11年(1634)切支丹11人が火刑された六本松磧があった。
天保6年(1835)ここに魚市場が設けられた。
住吉神社は海路安全の守護神。宝暦3年(1753)若宮八幡宮境内に創祀されたが、
文化3年(1806)船頭町に移された。嘉永7年(1854)に奉納された御座船の絵馬がある。
住吉神社の祭日(旧6月晦日)には潮浴びするおんばらい(大 祓)の風習があり、夜は商店街の
見立細工で賑わったが今は途絶えている。
常夜灯はもと揚り場にあったが住吉神社移転の際、境内に移された。
台座には塩飽屋をはじめとする寄進者の芳名と一篇の詩が刻まれている。
「河上風雨百し 舟子時に津を尋ぬ 一点昏夜を照らす ぐう耕(同朋)の人に逢うが如し」
書物奉行明石秋室の作といわれている。
旧三ノ丸御殿(万延元年1860改修)の玄関・広間部分。昭和45年文化会館の建設に伴い解体され
船頭町に移された。唯一の城郭建築である三の丸櫓門と共に、唯一の御殿建築として貴重である。
猩々山車 春祭り五所明神社の神幸祭に随行する船頭町の山車飾り。猩々は酒を好む妖精で、
能や狂言で演じられる縁起物、商売繁盛のシンボルでもある。
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