いつの時代のころかわからないが、豊前、豊後一円の川や渓谷に、多くの河童が住みつくようになり、増えるにしたがって、やがて田畑を荒らしたり、人畜に危害を加えるようになった。
初夏、初なりの茄子を水神様に供えるといって、川に流す風習は、畑の野菜や果物に加えられる河童たちの悪戯を未然に防ぐために生まれたもので、これをしないと、河童たちは畑中の茄子にきずをつけてまわると信じられていた。
河童については、次のようなことが言われていた。河童は人に憑いて魂を奪い、河童に憑かれた人は、必ず川に面した窓の下で寝るようになる。河童の通り道になった穴の周りは水でしめっている。
戸外に水を捨てる場合は、河童に声をかけてからでないと、とんでもないたたりがある。
女は、河童の住む川の近くでは、ふしだらな様を見せてはならない。そうでないと、河童に懸想され、河童の子を生むことがある。河童と通じた女は、深夜床を抜け出し、川に下半身を浸して水浴する。臨月になると、河童の子を生むが、その子は生まれるとすぐ川へ飛び込むので、誰もその姿を見たものはいない。
安永の中ごろ、日田郡竹田村川原町に白糸嘉右衛門という田舎相撲の大関がいた。
その子に正吉という十二、三歳の男の子があり、親ゆずりの力持ちで、強胆な子で
あった。
ある夏の日のこと、三隈川で正吉が泳いでいると、何物かに足のかかとを掻かれた。正吉はすぐ水に潜り、水中を手当たり次第ひっかきまわして、正体を見きわめようとしたが、なんの手がかりもなかった。
ところが、その晩、正吉が家で寝ていると、真夜中ごろになって、水浴びがしたくてたまらなくなり、憑かれたように起き出して、三隈川までやって来た。
いつものように着物を脱いで岩にかけ、水に入ろうとすると、水中から二、三歳の子どもほどの妙な形の動物が現れ、「お前は相撲取りの子なら相撲が上手じゃろう。相撲をとろう、相撲をとろう。」と、呼びかけた。正吉は、さてはこれが噂に聞く川太郎だなと気がついたが、気丈な少年なので、すぐ河童と四つに組んで相撲をはじめた。
正吉と河童は、しばらくもみ合っていたが、正吉の方が力がまさっていたので、隙を見て河童を引きつけると、その両手両足をもって、頭上に高く差しあげ、傍らの岩に投げつけた。
すると、また同形の河童が出てきて、正吉に組みついた。正吉はこれも岩に投げつけてしまうと、幾十匹もの河童が現れて、傷ついた二匹を水中に担ぎ込み、残りは正吉を取り巻いて、次々と相撲を挑んだ。正吉は河童を相手に荒れ狂った。
一方、家では、父親の嘉右衛門が、夜中にふと目を覚ましてみると、隣の正吉の寝床がからになっているので、驚いてあちこち探しまわった。そして、道端に正吉の下駄が脱ぎ捨ててあるのを見つけ、下駄の向いている方向をたどって、三隈川の岸に出た。
見ると、裸になった正吉が、一人で大あばれしているので、どうしたのだと声をかけたが、父親の姿など目に入らない様子であばれまわるのである。嘉右衛門は、正吉をむりやり家に連れて帰った。
それからの正吉は、いつも宙の一点に目をすえて、「さあ来い、そこだ、ここだ。」と、叫び狂うので「これはてっきり川太郎と相撲をとったに違いない。」と、近所の人たちと相談し、氏神のお守りをはったり、お祈りをしてもらったりしたが、ききめがない。
ところが、ある人が、「川太郎のたたりには、名刀を側に置くのが最も良い。」と教えてくれたので、里中を捜し、名剣と言われる刀を集めて、枕元に置いたが、正吉に憑いた河童はひるむ様子がない。
そのうちに郷義弘の銘がある脇差しを持っている人があり、この刀を置いたところ、不思議なことに、真夏だというのに、正吉は頭から布団をかぶって、ガタガタ震えはじめた。刀を持ち去ると、再び元にもどってあばれるのである。そこでたびたび、この刀を借りてきては静めていた。
そのころ、阿蘇山の僧、那羅焔坊という修験者の門人に、渋江貞之丞という者がいて、河童を静めることにかけては、当代随一と噂されていた。
嘉右衛門は、この人のもとを訪れ、正吉に憑いた河童をおとしてもらうよう頼み込んだ。渋江はさっそく竹田村にやってきて、正吉とさし向かい、呪文を唱えて祈願をし、正吉に憑いた河童を呼び出して聞いてみると、河童は「正吉のために、仲間の河童を二匹も打ち殺されたので、その仇をとるため正吉に憑いているのだ。」という。
嘉右衛門は、渋江を通じて、今後必ずその河童の霊を弔うお祭りを続けるから、今度だけは許してくれと哀願したあげく、ようやくこの河童のたたりを避けることができた。
そのとき、呼び出した河童の話によると、これらの河童は、日田に住む河童ではなく、筑後の国の河童で、日田の河童はみな石井大明神の法力で封じ込められているため、土地の人に害をすることはできないのだという。
では、筑後の河童が何のために日田まで出てくるのかと尋ねたところ、それは毎年一度、阿蘇那羅焔坊のもとへ九州の河童たちが集まって、そろって水神様にご機嫌伺いすることになっているためだという。
その時、筑後川の河童たちは、大頭目千一坊に従い、五月初めに筑後川から三隈川を下って阿蘇におもむき、六月上旬には再び川をさかのぼるのだということであった。
その昔、菅原道真が筑紫に流罪の時、河童たちに和歌を教え、そのかわりに人に危害を加えぬことを約束したが、これを忘れている河童が多いので、河童に憑かれぬためには、川を渡るとき、
「いにしへの約束せしを忘るなよ川たち男氏は菅原」
の和歌を口で訴えると、河童のたたりをまぬがれるとのことである。