千町無田(せんちょうむた)の田




朝日長者  伝説
今から1300年前、飯田高原千町無田に「朝日長者」とよばれる長者が住んでいた。長者は、この付近一帯に土地を持ち、黒木御所というりっぱな御殿をかまえていた。長者は、「後ろ干町前千町」といわれるほど、たいへん広い土地をもっていた。屋敷の中には、近くを流れる音無川を引きいれ、大きな池をつくっていた。そればかりか、九重山群を築山とし、飯田高原を前庭として、それはそれはぜいたくの限りをつくしていた。

長者がもっていた千町の水田は、土地もこえ水にもめぐまれ、たいへんイネのできばえがよかった。長者の家では、旧植えの時期にいちばんいい日をえらび、おおぜいの人を使って一日で植えてしまうのが、今までのならわしであった。この年もいちばんいい日がえらばれ、朝早くからたくさんのやとい人が出て、田植えがつづけられていた。ところがどうしたことか、この日にかぎって仕事がなかなかばかどらず、夕方に近づいても田植えはすみそうにもなかった。ついに長者は腹をたて、「なんとしたことだ。日がくれるぞ、急げ、急げ。」と、どなりちらすが、いっこうにすみそうにない。気はあせるばかりであった。
                                        
日がまさにしずもうとしたときだった。長者は、東の山の上にかけあがると、手にした扇をひらいて、「かえれ、かえれ。」と、お日さまにむかって大声でさけんだ。すると、ふしぎなことに、今まさにしずもうとしていたお日さまが動きをとめた。みんなはどっと歓声をあげた。その間に、残り全部の田植えをたちまちすませてしまった。後に、この山を扇山と呼ぶようになった。

これほどの長者でも、日照りだけはどうしようもなかった。
ある年のことだ。くる日もくる日も、お日さまはギラギラともえ、革も木も焼けただれんばかりに枯れはててしまった。後ろ干町前千町の美田もすっかり荒れはててしまった。
長者はほとほと困りはて、黒岳の北のふもとの男池に雨ごいをした。長者は、原生林につつまれた池のほとりでけんめいに祈りつづけた。雨ごいにはいって七日め、長者のいのりが通じたのか、雨雲が空をおおった。やがて、大つぶの雨が大地をたたきはじめた。ひあがった川に水があふれ、田も畑もすっかり緑をとりもどした。村にふたたび活気がもどってきた。

その年、村は豊作の喜びにわきかえった。けれども、村人がわきかえればわきかえるほど、それというのも、雨ごいのとき、雨をふらせることと引きかえに、竜神様にとんでもないやくそくをしてしまったからだ。そのやくそくというのは、雨をふらせてくれたら、じぶんの三人の娘のうちのひとりを竜神様にさしあげる、というものだった。

長者には、三人の心のやさしい、美しい娘がいた。父の苦しみを知った姉娘の豊野姫は、いけにえになることを父に申し出た。
「もし、竜神様とのやくそくをはたさなければ、一家だけでなく村じゅうにわざわいがふりかかりましょう。わたしひとりの命ですむことでしたら、豊野はよろこんで竜神様のいけに えになりましょう。」 これを聞いた二番めの秋野姫は、「姉さまは、朝日の家をつぐ大事なお方です。池にはわたしがまいります。」と言いながら、姉のすそにとりすがった。姉妹とも、身をささげる決心をして、たがいにゆずろうとしなかった。

ある夜、三女の千鳥姫が、屋敷からふっと姿を消した。姉ふたりのようすを伝え聞いて、自分がいけにえになろうと決心したのだった。ふところに守り本尊の観音像をだいて、姫はまっ暗な夜道を男池へと急いだ。
姫は、池のほとりにつくと、いっしんにお経をとなえはじめた。長いこと唱えつづけ、やがて夜明け近くなった。水面がざわざわと波だったかと思うと、池を二つに割って大蛇がおどり出た。大蛇は一口で千鳥姫をのみこもうと、口を大きくあけた。そのしゅん間、観音像が黄金色にかがやいて、さっと大蛇の口にとびこんだ。とたん、今までたけりくるっていた大蛇は急におとなしくなり、姫に話しかけてきた。

「わたしは、もと長者の先祖につかえていたうばでした。ある罪のためこの池になげこまれ、このような大蛇になったのです。今、観音様のお慈悲とあなたの孝行心によって、極楽に行くことができるようになりました。これから白水川にそって山をおりなさい。きっと幸せになれるでしょう。」と言ったかと思うと、大蛇の姿はふっと消えてしまった。

姫は大蛇のことばにしたがって、白水川にそって山をおりた。今の玖珠町八幡に着くと、そこの多久見長者の下女として住みこんだ。やがて長者の息子にみそめられ、いっしょにくらすようになった。

こうしたできごとがあったものの、朝日長者はいつしか夕日をよび返したときのように、再びおごりたかぶるようになった。
姉娘の豊野姫に筑後(福岡県)からむこをむかえ、お祝いの会が十日十夜もつづいていたときのことだった。うちつづく酒もりにつかれはて、あいてしまった長者は、神前にそなえてあるかがみもちを見て、矢をいると言いだした。おどろいてまわりの者がとめようとしたが、「ばかを申すな。わしほどのものに神罰が下るはずがあろうか。朝日長者は神仏以上じゃ。心配するな。」と言って、弓をひきしぼり、ひょうと矢を放った。矢はもちの中心にぶすりとつきささった。すると、ふしぎなことにもちは一羽の白鳥となって、大空高く北の方へ飛び去った。

「今の白鳥は、長者の氏神、白鳥神社のお使い烏にちがいない。」
一同は顔を見合わせて、ひそひそとささやいた。
このことをきっかけに、長者の家運はしだいにかたむきはじめていった。

ある日、長者はあり余る金、銀、財宝を山にかくすことを思いたった。妻やまわりのものの反対をおしきり、長者は遠くからやとった石工たちを使って、強鴫山に穴をほらせた。そして、ある夜、ひそかに宝物の山を運ばせてうめてしまい、穴をほった石工たちや人夫たちばかりか牛や馬まで、みな毒をもって殺してしまった。

それからというもの、長者の家にはふしぎなたたりが次から次へとあいついだ。火のないところから火事がおこったり、ふしぎな病人がでたりした。そのうち、自ら命をたつ人がつづき、ひとり、ふたり、三人と死んでいった。たたりをおそれたやとい人達がしだいに去っていき、あれよあれよという問に長者屋敷はさびれていった。三百年の長い間、金の力をほこり、その名を国じゅうにとどろかせた朝日長者も、すっかりおちぶれてしまった。

そんななかで、長者も病にたおれた。高い熱がつづき、床の上をころげまわって苦しんだ。
七日七夜苦しみつづけ、ついに八日めの朝、息をひきとった。

長者のそう式は、これがかつての朝日長者かと言われるほどさびしいものであった。長者の家に行けばたたりがあるといううわさが広まり、長者の死を聞いてもだれひとりかけつける者もいなかった。長者の死んだ日は、ふしぎなことにちょうど一年前、宝物をうめた日でもあった。

残された豊野姫と秋野姫の姉妹は、うしろがみをひかれる思いで千鳥姫のとつぎ先の玖珠の多久見長者をたよって旅だった。あまりにもむごい運命に、ふたりは泣きながらとぽとぽと歩きつづけた。それで、そこを「なきなが原」という。とうげにやっとの思いでたどり着いたふたりは、とうとう力つきてどっとたおれ、そのまま息をひきとってしまった。

その近くのクヌギ林の中に、二体のそまつな石の墓がある。土地の人は、これを豊野姫と秋野姫の墓だと言って、今でも大事にしている。


           大分の伝説より  文:橋本邦雄


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