養賢寺



川に投げ込まれた観音さま
慶長十年(1605年)、春もさかりのある日、佐伯藩主毛利家代々の墓がある養賢寺は、飲めや歌えの酒もりでにぎわっていた。なみいる武士たちの衣服もくずれて、くみかわすさかずきに城をあげての喜びがいっぱいだった。
「貴公、もっと飲め。きょうは無礼講じゃ。」
「うむ、これで殿もご安心じゃのう。」
毛利高政公も、このにぎわいに満足のようすであった。

きょうは、養賢寺にご本尊がおさめられたお祝いだったのである。ご本尊は、すでにほろんだ栂牟礼城主佐伯氏の竜護寺から運ばれてきた千手観音であった。

きのうのさわぎとはうってかわって、しずかな朝があけた。三関おしょうは、「さて、これからお勤めしよう。」と、本堂に入っていった。じゆずをもってひょいと見上げると、千手観音のすがたが見えない。
「これはまたどうしたことじゃ。」おどろいてあたりを見まわすと、観音さまは今にもはい出しそうなかっこうで、うつぶせになっている。
「だれがこんないたずらをした。」
おしょうは小僧たちをしかりとばした。「とんでもない。どうしてだいじな観音さまを そまつにするものですか。」
「こんな重たいお像を、わたしたちの手で動かすことはできません。」と、小僧たちは口々に言った。

ところがそのあくる朝も、またその次の朝も、観音さまはいつの問にか仏だんからおりてうつぶせになっていた。
「よし、だれがこんな悪さをするか確かめてやる。」

かんかんにおこった三関おしょうは、七日めにはひと晩じゅう観音さまをにらみつづけていた。ところが長い夜のこととて、ちょっと気がゆるんで、はっとわれに返ったときには、観音さまはまたもうつぶせになっていた。おそれをなしたおしょうは、このことを高政公に申しあげた。高政公は家来を集めて相談したが、いっこうにわからない。思いあまって、祈とう師をよんでうらなわせてみることになった。祈とう師は、観音さまに手を合わせて、しばらくの間なにやらつぶやいていたが、やがて殿さまに言った。

「殿、観音さまは竜護寺に帰りたいと申しております。」
これを聞いた高政公はこまったような顔をして、「うむ、せっかくわが養賢寺におむかえしたものを‥‥‥。そのほうたちはどう思うか。」
と、家来たちを見まわした。家来たちはたがいにうなずきあって、「竜護寺に帰りたがっている観音さまをとめおいては、どのような災いがあるかもしれませぬ。」
と、もとに返すことをすすめた。しかし、高政公は、「それでは、竜護寺が見える和田の坂にお堂をたてて安置すれば観音さまもなぐさめられよう。」と、千手観音を手ばなそうとはしなかった。

それからしばらくたつと、うでききの大工たちの手でお堂ができあがった。
「やれやれ、これでひと安心。」と、家来たちが胸をなでおろしたのもつかの間、やはり観音さまは、竜護寺の方へたおれるのだった。すっかり腹をたてた高政公は、「これほど大事におまつりしているのに帰りたいとは‥…・。佐伯の土地も民もみなわしのものじゃ。観音さまだけがどうしてわしの言うことを聞けないのか。」
と、頭をうちすえた。そのうえ、「手は二本あればけっこう。千手観音とは不都合千万!」と、手をぽきぽきともぎとってしまった。
「おのれひとりで竜護寺に帰れ。」と、和田の坂から番匠川へ投げこませてしまった。
人々は、どうなることかとはらはらしながら観音さまを見守っていた。すると、観音さまは流れにさからって川上へ上りはじめ、あれよあれよというまに、竜護寺めざして泳いでいったという。

高政公に切られた手は、その後新しくつぎ足され、今のような千手観音になった。安産の御利益があるというので、今も毎年旧暦三月十四日から十八日までは、子宝をほしがる人々のお参りでにぎわうという。
ホームへ戻る