岡城の石垣 2




岡城の歴史  (竹田市教育委員会)
       
                 (昭和11年12月16日 国指定史跡)
岡城は、文治元年(1185)大野部緒方荘武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが、惟栄は大持浦(兵庫県)を出航しようとして捕えられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369)から後で(『豊後国志』巻六 直入郡の項による。直入郡代官職・検断職を預けられた以降)、その城はきむれの城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。
天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢四千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、(『中川史料集』に、「志賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割りなどをおこなった。)急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1663)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった。
(岡城は山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。)
明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、14代・277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げで(明治7年「大分県布告書で、県内5城の建造物、岡城は69棟が入札に付されている。)すべてが取りこわされた。
瀧廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。


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