永禄五年(1562年)五月、大友義鎮は臼杵の丹生島に城を築いて隠棲、髪をそって宗鱗と称するようになった。このとき、一族や家老たちもたくさん臼杵に移ったが、そのうちのある家老に評判の娘がいた。幼いときからきれいだったが、年ごろになって容姿にはさらにみがきがかかり、ついには臼杵城下一の美人とまでいわれるようになった。
当然、縁談はあちこちからあったが、そのたびに娘は首を横にふり、父母もまた彼女を自宅の一室に閉じ込めて、虫のつかないようにとたいへんな気のつかいようだった。
娘は十八歳の春を迎えた。ところがどうしたことか、このころからともすればふさぎ込むようになり、花は咲いたというのに娘の表情は日毎に暗い影を増し、思い悩む日が続くように見受けられた。医者を呼んではみたが、なんの病気か見当もつかなかった。
そのころ、城下町には奇怪な噂が広まっていた。臼杵湾内にある津久見島から丹生島城にかけて、毎夜のように銀の波が走る。ぎらぎら光る怪物が、波を切って海を渡り、なまぐさい一陣の風を伴っている。これを見た者は三日三晩もうなされるというのだ。
一方、娘の病は日を迫って重くなるばかり。たまりかねた父母は、ある夜、人払いをしたうえで娘に問うた。「恋の病ではないのか」と。娘は初め言を左右にしていたが、涙の説得でついに告白した。それによると、毎夜子の刻(午前零時)を過ぎたころ、美しい若衆がどこからともなくやってくる。すると自分は気が遠くなり、その後のことはなにもわからない。しかしいまでは、その若衆のことが忘れられなくなっている というのだ。
家老ははっと思い当たった。それは城下に広がっている噂である。津久見島から城にくるという怪物が若衆ではないか。娘は魔性に魅入られたのではないか。
そこで、家来のなかから腕の立つ若侍を選び、「怪物の正体を見きわめよ。場合によっては斬れ」と宿直を命じた。月もおぼろな夜だった。
真夜中。若侍があたりに目を配っていると、庭の茂みの近くにぼんやりとした影が現れ、やがてはっきりと若衆の姿になり、娘の部屋に入っていった。若侍の方は、この間というもの金しばりにあったようで、身動きできない。そのまま待つことしばし。若衆が部屋から出てきた。若侍は全身の力をふりしぼって刀を抜き「くせ者」と叫んで切りつけた。だが不思議にも手ごたえはなく、若衆は風のように木立をわけて去って行く。追いすがって今度こそと刀をふるったが、若衆は平然。やがて城壁の端に出たかと思うと、ざぶんと海に身を躍らせた。
かけ寄って海をのぞき込み、若侍はびっくり。若衆の姿はなく、そこには十メートルほどもある大蛇が銀色の光をあげて波間をわけていくではないか。若侍は総毛だち、血は逆流、津久見島の方へ風を呼び、波を立てて去る大蛇を見送るだけだった。
以来、娘のもとに若衆はやって来ないようになった。だが、娘は日毎に衰弱し、ついには全身の血が枯れ尽し、数日後には朽ち木のように干からびて短い一生を閉じたということだ。