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100年前と現在の佐伯の風景を比較

2008年5月23日〜26日 善教寺において「小栗布岳展」を開催しました。

小栗憲一師やお兄さんの小栗栖香頂師の手紙や関連する長い絵巻物を見る
善教寺に保存されていた小栗憲一師(現住職の先々々代)の多数の日記
 

現住職の桑門超氏にこれらの日記を見せていただきました
日記のなかに皇太子殿下が海軍大演習の際佐伯に来られた事が書いてあります(左の頁)
明治40年 皇太子殿下(大正天皇)佐伯行啓記念として作られた
皇太子殿下行啓紀念南郡写真帖が佐伯市の善教寺さんで見つかりました

校閲人 大分県南海部郡佐伯町
   三關 天慧    (養賢寺住職)

校閲人 大分県南海部郡佐伯町
   石田 俊哲    (潮谷寺住職)

編輯人 大分県南海部郡佐伯町
   桑門 法導    (善教寺住職)

撮影者 大分県南海部郡佐伯町
   今泉 写真館
撮影者は佐伯町今泉写真館となっていますが 現在写真館はありませんので
今の善教寺住職桑門氏の許可を得ましたので掲載いたします

左側にその本からコピーした明治時代の写真右側に現在の写真を置いてみました

現在撮影地点が無くなっていたり建物があり同じ位置から撮影できない箇所も
ありますがなるべく 撮影ポイントを探して撮影してみました
5月から撮影開始 全部を撮影し終わったのが9月1日でした

約100年前の風景と比べてみてください

萩山より鶴屋城山并に城下を望む


郡の主府にして毛利氏変世據る所なり商業頗る繁昌す郡役所、区裁判所、警察署、税務署、郵便電信局、銀行、寺院、学校等あり番匠川は西南を環流し大江灘川は其南に流る慶長六年毛利伊勢守高政氏の封せらるるや地を鶴屋に相し居城を新築す山形鶴翼を張る如し故に鶴城と称す舊鶴を殺すを国禁とす依て白鶴丹項四時群を為すと
 

五所大明神社 今のパノラマ


佐伯町臼坪に在り太同元年豊後の守佐伯の宿彌久良麿の創始に係り加茂、春日、住吉、梅の宮、稲荷の五所を合祀す享保六年正一位の神位勅額を得たり末社二あり鎮魂善神と稲荷明神となり

招魂場


明治十年の役日向口の戦死者を合祀する所なり石碑あり櫻樹数百永く忠魂を護る

住吉神社 今のパノラマ


佐伯船頭町に在り古昔は白方に在りきと云ふ

舊城三の丸 今のパノラマ


鶴ヶ城の南麓にあり今は尋常小学校たり文禄の役朝鮮より移植したる一種の大樹あり枝梢繁茂し影全苑を掩ふ






 

養賢寺 今のパノラマ


城下に在り瀧鼎山と号す臨済宗なり慶長十年毛利伊勢守高政の創始する所にして毛利家歴世の菩提所なり京都妙心寺三關和尚を開山とす

潮谷寺


城下に在り嶺雪山と号す浄土宗なり寺伝に慶長十八年の創立にして開山を昌誉とすとあれども実は永禄中大友義鎮の創始する所にして慶長中に再興したるものなり

大日寺


城下に在り東光山と号す眞言宗なり慶長十三年の創立秀乗律師を開祖とす秀乗は長曾我部盛親の弟なり高政の知人なるを以て為めに一宇を建立せしむ

戦勝記念鐘 今のパノラマ


城下善教寺に在り此寺は毛利高政の母公帰依により慶長七年古市村より移転したるなり眞宗大谷派に属す此記念鐘は日露の戦役凱旋の際戦死者の霊に酬ん為め鋳造し遍く郡中陣没者九十六人の姓名を勒し以て其冥福を薦め且つ戦勝記念とす銘字の佛名は弘法大師吼木山の筆跡 御製の和歌は毛利子爵の書する処なり






 

久成寺


城下に在り碧松山と号す法華宗なり正保元年城主高尚の創始する所なり日普法師を開祖とす

魚市場


漁魚の集散場たり年々の売買価格数十萬円に達すと云ふ

若宮八幡宮


鶴岡村に在り建久中緒方惟栄の創始にして舊鶴城上に在り慶長年間今の地に移す延賓年中罹災遂に再建せず

星の宮


鶴岡村坂山に在り延暦三年六月一夜明星天光爛として地を射り脇村一丁畑に隕つ時人之を瑞とし祠を建て之を祭る






 

城山より佐伯湾を望む 今のパノラマ


北蒲戸崎南鶴見崎遥かに相対して一大湾を作す佐伯湾是なり此間大島大入島屋島群島竹島双子島等大小無数の島嶼あり雄大の風景本州第一と称す
 

葛港 今のパノラマ


本郡の要港なり水深く波静なり大船を泊するに適す東伊予を距る十八里船舶常に幅湊す
 

八幡并に代後宮の内 今のパノラマ


地は八幡村に在り嘉吉元年大内氏の舟師佐伯を攻むるや一軍を宮の内代後より上陸せんとす城主惟世伏兵を設け稗将をして陽に敗走せしむ敵兵来り逐ふ伏兵一時に起り大に之を敗ると云ふなを又八幡宮あり大同年間の創設と云ふ例年八月中旬大祭あり舟を艤して蝟集し郡内第一の盛祭と称す
 

最勝海藻門 今のパノラマ


景行天皇筑紫の熊襲を親征し給ふや船此門に泊す海底多く海藻を生ず長くして甚だ美なり 天皇即ち勅して進御せしむ因て最勝海藻門と称せしむ案ずるに彦山脈の東北海中に突出する一帯を上古は最勝海藻門と称せしなり今の蒲戸は海藻門の国音「かもと」を誤り伝えて「かまど」として今の字に転化せしならん
 

暁嵐瀧 今のパノラマ


上浦浅海井村に在り高さ十丈許白龍空に懸り下て深飄と為る絶壁高く従え屹立屏風の如し夏時遊客多し此地薩摩芋を以て名あり

権現島 今のパノラマ


大人島荒網代に在り

千両松 今のパノラマ


屋島群島中の一小嶼に在り鶴の羽翼を張り一摶正に昇天するの姿勢あり一名を「なんきん松」と称す

群礁 今のパノラマ


大入島高松と波太の中間に一直線を畫する点々の島嶼なり






 

神井 今のパノラマ


大入島の東南端日向泊りに在り神武天皇の東征し給ふや波多の浦にて舟導を得て此に泊す此地もと水に乏し天皇親ら弓矢を取り一崖の下に立で給ふ清水忽然として湧出す今に至る迄神井と称し天皇の霊を尊崇すること最も深し
 

水の子灯台


一に日振島と称す周囲三丁余りの小島にして梶寄村よら東北七里の海心にあり古は宇和島佐伯二藩の領境とす燈台は明治三十四年三月起工三十七年三月落成高十八丈余六萬八千八百燭光の旋転燈なり毎三十秒一閃白光を発し二十海里を照す工費弐拾萬円と云本邦第一の一等燈台たり
 

栂牟礼城


大神惟基の玄孫惟康封せられて佐伯に来るや栂牟礼に築城し佐伯を以て姓とし十七萬石を領す大友氏の附庸たり十五世佐伯太郎惟定に至る世々武勇を以て聞ふ文禄二年大友家退去に及び栂牟礼の佐伯氏亦亡ふ推定後ち伊予藤堂高虎に随従し元和四年六月九日伊勢津城に病死す其子惟茂惟壽の後系を審かにせす聞く伊予に其子孫現存せりと
 

古市石塔


鶴岡村古市に在り年代審ならず方四尺高さ二丈五尺余十三層方なり四面悉く彿像を刻す古色蒼然数百年前の物なるべし蓋佐伯惟冶以前の寺蹟少なからず古塔所在を道成寺と称す其上方に長雲寺光明寺の趾あり前面脇村の山上に一上寺二上寺山上寺の趾あり輪塔の残片を見る常時佛法の盛なるを知るべし

尺間神社 今のパノラマ


大坂本尺間山上に在り養老元年六月二十四日神托に因て山城国愛宕神社の神霊を勧請成す

釣り橋 今のパノラマ


因尾川の上流中野村に在り、明治三十一年の新設なり古来の難路頓に易行の道となる

彿座 今のパノラマ


因尾道路に在り、因尾川に岩骨突出して道を塞ぐ、岩の間自ら空洞道をなす






 

因尾の洞窟


因尾村井の上に一洞窟在り絶壁の中間に穿たれ窟内恰も石を以て畳むが如し空濶凡そ百人を容る可し洞外は群山高く従へ洞下に寺あり宿善寺と名く叉前面に深潭あり鐘ヶ淵と云ふ天正十四年十一月薩兵此洞下を経て丹生島城に至らんとす因尾の土民数十名糧食を裏んて縄梯を持ち此洞窟を臍り大木立石を洞外に懸け敵兵の来り過くるを待つ巳にして薩兵七百余来り渦く土民鯨波を挙け一斉に石木を役下す薩兵圧死せらるるもの百余爾後薩兵恐れて敢て此間道を過きすと云ふ
 

上野村風景


遥かに浄土宗岡平山西運寺望む此寺は慶長十二年良意和尚の創設する處なり風景愛すべし

切畑垂簾山


十年西南の役賊軍の一隊佐伯より逃れ此山頂に壘を築き暫く官軍を防ぐ所なり

祇園神社 今のパノラマ


切畠村江良に在り大同年間の創始祭神は素盞雄尊なり

直見尋常小学校 今のパノラマ


直見村に在り






 

番匠淵


天正十九年冬十月薩将島津家久大野郡三重市に在り玄西堂等二十人を使者とし切畑に遣て其降を勧む栂牟礼の城主佐伯惟定時歳十九家臣に議す曰く祖父惟教父惟鎮叔父鎮忠并に家の子三千余天正六年日州に於て陸軍の為め死す且つ義固より大友家に反くべからす加之我母堂曰目下唯戦の一ある耳勝ずんば妾先つ死せんと余が意決せり異議すること勿れと直に杉谷帯刀(或高畑伊像守)に命じて甘言以て使者を誘ひ夜番匠の淵に導く路暗黒なり帯刀火を挙げて是を我軍に知らしむ於是伏兵起り敵十九人を斬る甲斐宮内独り水に投じ暗に乗じて遁帰る
 

天徳寺より堅田の古戦場を望む


使を斬るの報に接し島津氏大に怒り一挙栂牟礼城を援んとし天正十九年十一月兵を蒲江の轟峠に進め火を堅田の岸河内に放ち以て武威を示す先陣を城村に後陣を汐月に置く佐伯太郎惟定の客将山田匡得(日向の人)善く兵を用ふ其兵を三分し自ら遊軍となり中山峠より直に八幡山に進め汐月の敵に迫る敵川を越へ江頭に退く別軍は寺田を迂回し宇山の古城址に上り敵を長池に壓す是より先き匡得間道より波越峠に出て擬兵を竹角に出し相応して長池の敵兵を威嚇す敵敗走して普坂峠の半腹に據る城村の敵兵は退て樺ゲ畑(俗云カバゴウチ)に在り因尾の兵之に向ひ鬼が原に敗走す更に兵を整へ進撃して此を敗る痕煙一火遥かに府坂の兵と通し二路相迫る敵軍恐れて長瀬原(俗云千人原)に退く此時我軍敵将其の馬印を得是を立つ敵集り来る我軍直に追撃斬殺算なし敵の残兵わづかに大越を経て遁走す此に依て佐伯全を得たり豊臣大閣爲めに感状を賜ふ後惟定戦死者の爲め塚を府坂峠并長瀬原に建て金剛寺に於て冥福を薦むと云ふ
 

宇山の古城祉より柏江の古戦場を望む 今のパノラマ


嘉吉元年八月大内義隆海を越て大友新治を攻むるや舟手を佐伯に分かち海浜に火を放ち人を殺す算なし頗る惨烈を極む民間恐怖甚し大内来を唱て児啼時を遏るに至る城主佐伯讃岐守惟世其残虐を忿り誘て柏江港に敵船を集めしめ故さらに寡兵を宇山に出し又城山及ひ樺現山八幡山に兵を伏せて待つ敵寡兵を侮り上陸来り攻む権現山の兵別路より柏江に進み敵の退路を断つ依て我兵一時に起り四面包撃其遁るるを逐ひ残兵を潮水に墜落せしめ兵船三百を焼き大勝を得たり
 

千代鶴御曹司


佐伯氏十一世薩摩守惟治は勇武を以て聞ふ人或は之を守護大友義鑑に讒す惟治使臣をして寃を曰さしむ義鑑使を殺し且つ臼杵長景を将とし来り攻む惟冶能く防ぐ長景利あらず依て僞て曰く惟治若し異端なくんば日向に退て大友氏の命を待てと惟治之を信じ城を捨てて日向石神嶺に至る長景遥かに新名の黨を嘱し逼り撃たしむ惟冶忿怒決戦して自殺す長子千代鶴九歳郎黨岡部新左南門を卒ひ道に西野に在り父の死を聞き悲観自殺せんとす適義鑑其罪なきを知り使者を派して之を救ふ使者馬上扇を挙げ其死を停む助黨誤て死を賜ふとし千代鶴に自刃せしめ而後ち皆自ら殉死す義鑑深く燐み伯父惟常を城主とし佐伯氏を断ざらしむ後其の地に樹を植へ碑を建つ碑の現存するもの左の如し
 

木立河口 今のパノラマ


佐伯町より木立村に至る船舶の来往輻湊する所なり茶屋ケ鼻を其前端とす天正七年七月廿一日日州の海賊数百木立に乱入す城主佐伯惟治の兵撃て其二十六人を饐す残賊遁逃恐れて再ひ来らず当時大友宗麟の感状ありと云ふ
 

中山峠 今のパノラマ


久部村より堅田村に通する要路に在り昔音薩摩島津氏乱入するや栂牟礼の城主佐伯惟定機先を御して陣を此所より進む

黒澤桜樹 今のパノラマ


黒沢村桐原に在り明治十年の役薩軍の三国峠を固守するや豊後口の官軍一営を 此地に置く其将軍馬を此桜に繋ぐ七日是より名を得たり樹邊の小庵風致愛すべ し老櫻二株一は周囲一丈八尺一は一丈三尺高六七丈枝條繁茂し垂天の雲の如し

東光寺庭園


蒲江村に在り臨済宗なり安置せる薬師如来は毘須羯摩天の作なり永亨六年二月 上旬西野浦の海中より上りたるを天安二年八月に此寺に安置したるなり例年正 月八日群集参詣す

辨天島


名古屋村猪の串湾内に在る一小島なり辨天を祠る






 

蒲江港湾 今のパノラマ


本郡第二の都会漁魚の盛なるを以て名あり電信局の設けあり湾内能く風波を避け汽船を入るるに足る
 

米水津湾


湾内屈曲水深し外洋に面して横島あり故に能く風波を避くべし昔景行天皇の熊襲を親征し玉ふや周防より舟を放ちて此所に来泊すと是れ古の水路なるべし其地を宮の浦と称す崇尊するなり三十七八年の役水雷艇隊常に此虞に繋留せり又電信の便あり

入津湾 今のパノラマ


湾は大南に面せり神武天皇東征し給ふや途次舟師此所に泊す上陸し給ふの地をヱムト鼻と称す湾内水清く且つ深し中央に浅所あり俗称彌治郎貝を産す本郡の名物なり
 

伊勢本神社 今のパノラマ


下入津村波多の浦に在り伝え云ふ神武天皇の東征し給ふや舟師を此浦に泊し前途を祝し玉ふと今の御神體は古代の土器なり

宮の浦 今のパノラマ


米永津湾の一部なり景行天皇の熊襲を親征し給ふや周防国佐婆津より船を放ちて海部の宮の浦に渡り泊し給ふと是れ古代の海路なるべし里人尊崇して宮の浦と称す

粟島 今のパノラマ


米水津に在らり例年正月十六日群参せり

屋片島 今のパノラマ


蒲江湾の前方に在り風景絶妙なり







 

東雲尋常小学校 今のパノラマ


上浦村浅海井村にあり

眼鏡岩 今のパノラマ


名護屋村波当津に在り豊日二州の国境なり洞巌濶さ凡そ四間高さ亦同じ漁舟の往来する所奇景想ふべし
   (此二葉は佐伯町深津写真館の撮影に係る)



上記写真帖を復刻版として発刊しました 追加発行のお知らせ

本には更に詳しく説明があります 是非この本を手に入れられご覧になってください
販売価格は1000円ですから佐伯市を遠く離れた知人にプレゼントなどすれば喜ばれます

 ご注文は

四教堂塾 事務長の渡辺捷三へお電話ください
 050−3442−6007

こちらもご覧ください軸丸氏が集めた

佐伯 軸丸勇氏が集めた昔の写真より

このページのモノクロ写真は佐伯市宇目の軸丸勇氏が大変な努力をされて収集した写真です
佐伯市海崎の汐月三代吉氏がそれらをまとめてコピーしてくれていましたので
改めて佐伯の昔を振り返って見ることも意義ある事と思い
数多くの中からパノラマンの関心ある写真だけを選びホームページに一部を掲載いたします

カラー写真はパノラマンが撮影した現在の風景です

佐伯藩最後の城主
毛利家第13代毛利高範
佐伯の教育・産業の振興に努力された
23歳の若さでドイツに留学し 3年間
つぶさに西欧各地の見聞を広めた
帰朝後は宮内省式部官に登用された
佐伯町の町民として居住されたこともあったが
昭和14年東京の自邸で病没した
行年74歳であった
矢野文雄(矢野龍渓)
明治23年第一回帝国議会の開会式が
挙行され 矢野文雄は明治天皇の
侍従としてこの式に参列した
そのときの写真です

報知新聞副主幹として自由民権の論陣を張り
大隈の立憲政体樹立のため国会開設意見書
を起草執筆した 後「大阪毎日」副社長
政治家・思想家・文学者として大分県を
代表する一人である
櫓門の前
右側は佐伯小学校
左側は税務署の倉庫

明治40年頃の写真
三の丸御殿跡には文化会館が建ちました
三の丸御殿

明治40年頃
東宮御召艦

明治44年東宮殿下(後の大正天皇)が
海軍大演習のため佐伯湾に行啓なされた
大入島の山上にもおのぼりになった
佐伯湾に入った海上自衛隊の潜水艦
三の丸御殿 御書院

この建物は明治末解体され
蒲江小学校に生まれ変わった
庇部分は左の建物に継がれて
三の丸御殿(移築され現在は住吉御殿)
の姿になる
移築され住吉御殿になりました
佐伯尋常高等小学校

明治初期?
櫓門の白い漆喰が目立つ
佐伯尋常高等小学校

明治33年
佐伯尋常高等小学校運動会

明治35年
今も昔も万国旗を張るんですね
佐伯尋常高等小学校落成式記念写真

明治41年

佐伯尋常高等小学校

明治43年正月
三の丸満開の桜

明治初期
馬場の松 養賢寺前

昭和初期
昔の松は全部松食い虫のため枯れてしまいました
佐伯図書館
位置は現在の第一時計店

明治45年
佐伯高等女学校

大正10年頃
住吉神社境内から
内町川の始まるところ

明治45年頃
住吉神社も道を作るため移築され
樟の木だけが元の場所にあります
住吉神社
住吉浜から池船を望む
水面に映る高住山の山影が
たばこの葉のようで
たばこ山と呼ばれる

大正時代
旧番匠川の浚渫
後方の山はたばこ山
大屋根は明治座
池船橋

昭和48年頃
池船橋
住吉橋と城山
船頭町本丁

明治40年頃
椎茸問屋
魚市場

大正初期
魚市場
城東橋から浚渫船
内町川があった

昭和13年頃
川は埋め立てられ商工会議所になり
屋上から撮影 楠がまだ少し残っています
弥生の西運寺周辺
樹齢500年の大松があります
上の写真の西運寺大松
上から順に枝を切り落とされ
伐木された 造船の材料となったのだろう
坂の浦の峠から本田造船所を見る
本田造船所

昭和23年頃
本田造船所

昭和25年頃
本田造船所

昭和28年頃
蒲戸から福泊への道
断崖の危険な道

大正末期
最勝海小学校 運動会

昭和20年頃
上浦風景
暁嵐の滝公園から東雲小学校
の眺め

昭和初期
佐伯停車場の建設時の写真

明治44年に大分まで鉄道が伸び
大正5年10月までに佐伯まで開通

大正4年撮影
開通当時の佐伯駅
人力車や客馬車の列

大正5年
佐伯駅付近

昭和30年頃
佐伯駅前
昭和30年頃
天皇ご巡幸
お召列車佐伯駅到着

昭和24年6月7日
重岡駅開通

大正11年3月26日
今の重岡駅
木炭ガス発生炉付自動車
燃料不足時代

昭和15年頃
乗合自動車シボレー
小野市乗合自動車は小野市起点
佐伯往復の営業開始 やがて大分バスに
買収される
木炭を運ぶトラック

昭和16年頃
大型トラックによる大型木材輸送

昭和25年頃
常盤橋
毛利高範によりいつまでも不滅であるようにと
常盤橋と名付けられた

大正初期
田代橋完成間近
石造りアーチ橋

明治40年頃
今は北川ダムに沈んでしまい
渇水期だけ見えるようになります
色利港
当時色利港は天然の良港で
当時の帆船は海が荒れると避難入港していた

大正末期
蒲江
鶴見のシシ垣
白魚漁
組合員30名 漁獲高6石

大正時代
今も漁をする方は数人いるようです
城山から神護寺通り

明治40年
路久志川と鶴谷中学

昭和30年頃
長瀬津留

昭和15年頃 このあとパノラマンの生まれた
昭和18年の大水害で佐伯の殆どが床上浸水
改修された今の番匠川本流
長島川河口付近

昭和30年頃
港と汽船
国木田独歩の来た頃の葛港
下は待合所兼旅館

明治38年頃
海軍航空隊の広い埋め立て地を望む

昭和25年
興人パルプ工場と興人社宅
佐伯港

昭和30年頃
引揚げられる人間魚雷回天(地中海にて)
昭和20年佐伯海軍航空隊は人間魚雷回天の
基地であった
日本セメント海崎工場
昭和元年操業開始
一日600トン生産

昭和7年頃
日本セメント海崎工場

昭和15年頃
空から見た海崎セメント工場

昭和30年頃

 井上氏が集めた昭和前半の写真もあります

昭和20年代の佐伯

皆様 昔の写真を見てもらいたい方はお知らせください
このような 昔の大分県内の写真を掲載したページを
作ったら面白いかなと思っています

この写真は大手前商店街でイノウエ洋品店を経営していた
井上宣郎さんから提供していただきました
戦前や大正時代の写真は他からです

宣郎さんのお父さんである井上勇氏が昭和20年代に
撮影していた16ミリ映写フィルムや他の写真などの記録から懐かしい
佐伯の風景をピックアップしてみました
16ミリの映写フィルム
撮影された故井上勇氏
大正10年に佐伯にバスが走り始めました
大正時代の佐伯駅
春祭り
春祭り2
当時の井上洋品店
商店の宣伝隊
こちらも同じ宣伝隊
これは昭和6年撮影した佐伯小学校
佐伯実科高等女学校後の豊南高校
今の佐伯市役所の場所です 大正9年
佐伯実科高等女学校
三の丸にあった鶴谷女学校大正14年撮影
城南橋が台風で流されました
建物が城南中学です
船頭町と番匠川
池船橋
航空写真 鶴城や佐伯小学校と番匠川
城山から池船橋を
鶴谷中学はここでした
佐伯港と大入島
航空写真 興人と鶴見半島
広々とした興人
二平合板
鶴城高校での運動会と馬場の松
鶴城グラウンドで消防出初
この出初での放水風景
消防本部

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