今から20年以上前から海舟日記や佐賀関 コ応寺 第十世住職 龍潭(りゅうたん)の資料を調べて
いた郷土歴史家の北川徹明氏は それまでの通説 司馬遼太郎が書いた「龍馬がゆく」では
馬関海峡を渡って長崎へ行ったことが それが誤りであることに気付いたのです
それいらい北川氏は海舟と龍馬たちは陸路で長崎へ歩いて行った事を過去の書物を調べ上げ
鶴崎や野津原の宿で宿泊し肥後へ向かっています この史実を知らせるためにも
その長崎への道中で海舟と龍馬の新しい日本の国造りの進め方が話し合われたのです
北川実行委員長はこの鶴崎の地に二人の彫像を建てたいと これまで奮闘努力してきました
その実行力に感銘を受け 友達として 「パノラマ風景写真で観光する大分県」の管理人である
私が自分のホームページ内に「勝海舟・坂本龍馬の彫像と歌碑を建てる会」のページを
作らせてもらっています このたび多くの紆余曲折を経ながら 一つの目的を達することが出来ました
日本中に坂本龍馬や勝海舟の像はいくつもありますが 二人の彫像が立っているのは
この大分県大分市鶴崎だけであります
資金が思うように集まらず、当初計画していた銅像をあきらめ
実物大の「石像と歌碑」にての建立となりこのたび、竣工・除幕式を開催いたしました。
多くの方々のご支援ご協力ありがとうございました。
「海舟・龍馬の石像と歌碑の竣工 除幕式」
開催日時: 平成27年11月15日(日) 午前10時
開催場所: 毛利空桑記念館前
石像と歌碑を建てる予定地に立つ実行委員長の北川徹明氏27年春撮影
2015年11月15日(日) 竣工・除幕式の日撮影写真から
この空桑思索の道グリーンベルト帯に設置されました
海舟と龍馬が鶴崎に泊まって(文久4年2月14日)から150年になります
勝海舟が2度目に鶴崎を訪れたとき(明治6年)に毛利空桑と会談しております
海舟日記には毛利空桑先生の事を「なかなか気骨のある男だった」と高く評価しています
彫像には白い幕がかかっています
大分県立鶴崎高校吹奏楽部による演奏
動画で演奏をご覧ください
北川徹明作詞 松たけし作曲 海舟・龍馬豊後路をゆく 女性歌手は平山与里子さん
北川氏は永年この日を待っていました
来賓祝辞
左と右から幕を引きます
立派な海舟・龍馬の像が出来ました
鶴崎文化研究会の皆さん ご苦労さまでした
像は親しみやすいよう実物大に作りました
「勝海舟・坂本龍馬の彫像と歌碑を建てる会」会長の河野脳神経外科病院院長の河野氏
勝海舟の詠んだ歌
最初の会長は故辻野先生にお願いしていました 辻野夫人と一緒に
2011年10月1日長崎から復元観光丸がやってきました
観光丸(かんこうまる)は、1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所練習艦としてオランダより江戸幕府へ贈呈された軍艦。江戸幕府初の木造蒸気船。旧名スームビング号。長さ29間(約52.7m)、幅5間(約9m)、150馬力、大砲6門、排水量400トン。
観光丸は、長崎海軍伝習所において、勝海舟、榎本武揚らの幕臣を育てた後、しばしの時を経て、今度は勝が主宰する私塾「神戸海軍塾」にて、坂本龍馬をはじめとする倒幕の志士を数多く育てることとなる。
1850年(嘉永3年)にオランダで建造が開始され、1853年(嘉永6年)に完成。その2年後、オランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定に贈呈され、日本の最初の蒸気船となる。1856年(安政3年)に「観光丸」と改名し、幕府海軍の練習艦として使われる。長崎海軍伝習所の閉鎖後は佐賀藩に委託され、同藩の三重津海軍所で運用された。1865年(慶応元年)に「観光」と再び改名。1868年(明治元年)、明治新政府所管となり、1876年(明治9年)に除籍され解体された。
観光とは、中国の『易経』の「国の光を観る」という一節に由来する。幕末当時、軍艦は国威の象徴であり、観光丸の名には、国内外に対して「幕府の威信を示したい(光を観よ!)」という強い思いがうかがえる。
1987年(昭和62年)に進水した復元船が、長崎のハウステンボスで就航している。造船は国立アムステルダム海事博物館所蔵の設計図面と模型を基に、オランダのハウスデン市にあるフェロルメ造船所に発注され、当時の姿になるべく近いかたちで復元・建造が行われた。
Wikipedia他より
詳しくは管理人の当日のブログをご覧ください
帆船「観光丸」が長崎から大分のかんたん港へ入港してきました。
観光丸には長崎市長や龍馬ファンとして有名な武田鉄也さんが
乗船しています。その一行を西大分のかんたん港で釘宮市長と
豊後龍馬会がお出迎えしました。
田上長崎市長は 当日わざわざ今回の訪問のきっかけとなった北川氏を訪れ
一緒に記念写真を撮りました
2011年度ロマン長崎の親善大使松本さん(左)と管理人と松尾さん(右)
中津龍馬会の楠木さん
クリック⇒2011年10月1日到着した観光丸を出迎える
観光丸のスライド写真←クリックしてストーリーショーのボタンをクリック
豊後街道
大友宗麟の時代から豊後街道は「キリシタンベルト」として豊後府内と長崎を結ぶ重要な道路でした
吉田松陰はロシアに密航しようとこの街道を歩いて長崎へ、しかし乗り遅れ後にペリーの船で密航
しようとして失敗しました。
加藤清正は豊後内に飛び地領久住・野津原・鶴崎・佐賀関を取得し細川藩の参勤交代に
この街道は使われました。
勝海舟と坂本龍馬ら21名は幕府の命により、この街道を長崎へ歩いて旅しています。
下の絵は 空想画ですが 左より勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰が久住を背景に立つ姿です。
2011年4月29日 鶴崎公民館にての集会で 「海舟・龍馬 豊後路をゆく」が披露されました
海舟・龍馬 豊後路をゆく 北川徹明作詞・松たけし作曲
一、 日本の行く末 憂(うれ)いて語る
御国(くに)守るため 大坂を発つ
熱き思いの 志士(おとこ)たち
瀬戸の荒波 乗り越えて
*海舟・龍馬長崎めざし
アーアー 豊後路をゆく
二、 めざすは長崎 肥後街道
舟、関に着く 篠生峠(しのとうげ)
越えて鶴崎 夢ひと夜
二人で語る 国づくり
* 繰り返し
三、 野津原越えて 久住の里へ
指さすかなた 龍馬ゆく
維新の想いを 今ここに
日本の未来を 拓(ひら)くため
* 繰り返し
2010年1月24日 坂本龍馬の足跡を追う 〜幕末維新の道フォーラム開催〜
幕末から維新の動乱期、坂本龍馬と勝海舟の二人の足跡を追うことで、維新の息吹を感じ、
今後の地域振興に生かすきっかけを与えることを目的に講演・トークセッションが
くじゅうサンホール会場で開催されました。
勝海舟
坂本龍馬
2009年11月7日鶴崎市民行政センター2階大会議室にて
勝海舟・坂本龍馬の銅像と歌碑を建てる会 決起大会を開催いたしました。
銅像と歌碑を建てる予定場所「鶴崎歴史文化ふれあい広場」(仮称)大分市へ用地確保の請願書提出しています。
凧を揚げて空から鶴崎と大野川を撮影してみました。 (2009年7月7日)
6月6日鶴崎公民館に於いて「銅像や歌碑を建てる意義を考える会」を開催いたしました。
5月16日〜17日長崎龍馬会「坂本龍馬之像」建立20周年記念イベントに参加してきました。
勝海舟日記によれば坂本龍馬を伴った勝海舟は文久4年(1864年)2月14日に
大阪を出航、翌15日に佐賀関港入港、佐賀関の徳応寺に宿泊し、2月16日
豊後鶴崎の本陣に宿すとあります。
幕府から英・仏・米・蘭四カ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を命じられた勝海舟が、
文久4(1864)年2月、坂本龍馬らを連れて豊後街道(肥後街道)を長崎まで駆け抜けた。
海舟はこの豊後街道の旅を、『海舟日記』に詳しく記録している。
当時の豊後街道の様子が良く分かるので、以下に紹介する。
5日 登城。 (中略)
○同夕、御船にて長崎表へ差し遣わざる旨、仰せつけらる。
是は近々フランス船、下の関へ一戦の為、軍艦差し立て候趣、風聞。(下略)
13日 大風、乗船すること能わず。
14日 出帆、一時、海上平穏、少しも風涛なし。時毎に、七里半を進む。
15日 5時 豊後、佐賀関、着船。 即ち徳応寺へ止宿。
16日 豊後鶴崎の本陣に宿す。佐賀関より五里。此地、街市、可なり。
市は白滝川に沿う。山川水清し、川口浅し。
〔上欄〕大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴さき
17日 野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず、八幡川あり。
大抵一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。街道広く、田畑厚肥、桃菜花盛、関東の三月頃の季節なり。
〔上欄〕民のかまどゆたけきものをしらぬいの つくし生てう野津原のさと
○野津原の宿より出ずれば、山路。この路、久住山を左に見る。
往時、この宿の村長三輔なる者、山中より水源を引き、三渠を引く。
これより古田20余町、新田3余町を得たりと、その事業を記す碑あり。
18日 久住に宿る。細川公の旅亭。惣体、茸屋、素朴、華美の風なく、庭中泉を引き、末、田野に流る。
七里地は、久住の山脚にして、殆ど高崇、地味可なり。山泉を引きて左右に導く。中流甚だ多く、
架する橋は皆石橋、円形に積み、橋杭なし。
導泉、意を用いて左右数所。林木これが為に繁茂し、稲、粟、皆実るべし。
その巧妙、尽力の到る処殊に感ずべく、英主にあらざれば、この挙興しがたかるべし。
他領、公田の雑る所、熊本領に及ばず。
19日 内の牧に宿す。この地もまた山中、山泉自由なり。
○ 惣て鶴崎より此地まで、土地厚腺、熊本領は大材甚だ多し。
此地より街道杉並樹、数十年の大林、左右に繁茂す。我、此地を過ぎて、
領主の田野に意を用いしこと、格別なるに歎服す。
また人民、熊本領にして素朴、他国の比にあらず。
加藤・細川家の熊本藩の治世の素晴らしさが、海舟の筆によって目に浮ぶように良く分かるではないか。
さてが坂本龍馬が勝海舟に伴われて豊後街道を旅したのは、『海舟日記』や佐賀関の徳応寺の記録からも
間違いないのに、なんと司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では馬関海峡を通り、肥前伊万里湾に上陸したとされている。
司馬遼太郎は「私などが小説を書く場合に、まず大事なのは史実です。・・・・・史実というのはその国の国民の
共有財産であって、作家が勝手に曲げたりするわけにはいかないからです」(「歴史小説家の視点」)
と述べている。だから司馬遼太郎が意図的に史実を曲げたとは思われず、『海舟日記』や歴史小説の
大先輩子母澤寛の『勝海舟』(新潮文庫)を読み忘れて、史実に反する記述をしたものと思われる。
辻野 功←クリック
佐賀関 コ応寺 第十世住職 龍潭(りゅうたん)の資料から
コ応寺 第十世住職 龍潭(りゅうたん)の描いた船のスケッチがいろいろあります
さて『海舟日記』には船名の記述はないのだが歴史家や小説家の間では、勝海舟は翔鶴丸という船に
乗って佐賀関に着いたということになっている。
しかしこれはどうやら誤りであるようだ。実は宿泊先の徳応寺の住職 龍潭(りゅうたん)が、次のように
勝海舟・坂本龍馬の止宿の記録のみならず、乗ってきた船の名前やスケッチを残しているのである。
勝海舟一行が佐賀関まで乗ってきた
幕府の船 第二長崎丸
甲子2月
15日 大津 蒸気船
長崎丸
乗組 70人余
○勝氏 甲子2月15日長崎丸ヨリ御上ガリニ付拙寺御止宿 軍艦御奉行勝麟太郎様上下廿一人御止宿ニ
相成申候翌16日御発駕鶴崎江御滞宿こ相成候事(下略)
日本海事史学会会員で『幕末の蒸気船物語』という著作のある元綱数道氏は、鶴崎の郷土史家北川徹明氏からの
徳応寺住職のスケッチのコピーを添えての問い合わせに対し、「翔鶴丸は外車式蒸気船ですから住職の絵とは異なり」、
長崎丸という船は3隻あり、「第二長崎丸はスクリュー式蒸気船であり、また勝海舟著『海軍歴史』によると
第二長崎丸は三本マストとなっていますので、この点でも絵と一致します」と答え、海舟と竜馬が乗ってきた船は
第二長崎丸であることを明らかにした。
なお2月15日の記録には坂本竜馬の名前は出てこないが、帰途もう一度徳応寺に泊まった際の寺側の
記録には、下記のように坂本竜馬の名前が確認できる。
勝麟太郎 軍艦奉行
甲子4月10日八ツ半拙寺へ着(中略)
高木三郎
高山喜一郎
高松太三郎
高松好市
佐藤輿一郎
黒木小太郎
坂本龍馬
竹田康次郎
以上八人丈名前有之余ハ不知
(下略)
歴史小説の分野では司馬遼太郎の大先達である子母澤寛の『勝海舟』では、『海舟日記』に即して、
次のように書かれている。
豊後の佐賀の関に上陸、ここから陸行した。(中略)
丁度10日目。 23日の夕ぐれ、一行は海老の尾峠越えに長崎に入って行った。
子母澤寛の『勝海舟』は1941(昭和16)年10月から1946(昭和21)年2月まで新聞に連載され、
単行本としては司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を『産経新聞』に連載を始めるより10年も前の
1952(昭和27)年に創元社から出版されているが、司馬は子母澤の『勝海舟』も読んでいないよ
うである。
一番新しい津本陽の『龍馬』では、次のように書かれている。
麟太郎は、龍馬たちにいった。
「この船は、下関を通れば長州の砲台から撃たれるから、明日は豊後の佐賀関へ着船するよ。佐賀関か
ら豊後鶴崎、久住へと阿蘇の麓を歩き、熊本城下へ入るんだ……」
(中略)
翔鶴丸は予定通り、2月15日午後5時、豊後佐賀関へ到着し、一行は徳応寺という寺院に泊まった。
徳応寺様は、この度本堂の一角に「龍馬コーナー」を設けて下さいました。
貴重な記録のコピーも展示して下さっております。 機会を作って是非、徳応寺をご訪問下さい。
但し徳応寺様は観光施設でなく宗教施設であることを重んじて下るよう、お願い申し上げます
徳応寺の龍馬コーナーの様子が分かります ↓写真をクリック
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