平成19年5月31日
渡辺事務局長から 矢野龍渓の石碑を動かした話 6月15日〜21日に開催する矢野龍渓展について 招魂所の草取りと今秋の彼岸の墓前追弔会の件 クロマツ植樹の今後 郷バスや四教堂塾の運営について・・・・ の説明がありました |
皆様是非お誘い合わせの上 明治のマルチ人間 矢野龍渓顕彰展へご来場ください 入場料:無料
6月15日〜6月21日午前中まで 17日(日曜日)は休館日でお休み
1850年嘉永3年豊後国佐伯藩に、父矢野光儀・ 母コマの長男として生まれる、本名は文雄
矢野龍渓著作物
経国美談・ 演説文章組立法・ 日本文体文字新論・
浮城物語・ 不必要・ 訳書読法・ 人権新説駁論
新社会・ 「改良意見書」(『郵便報知新聞』1886年9月16日号掲載)
戦時画報・ 出鱈目の記・ 閑話集
龍溪随筆・ 龍溪閑話
国木田独歩を佐伯鶴谷学館の教員として呼んだのも矢野龍渓
国木田独歩が東京で出版社を開業し本が売れず苦労していた頃
ベストセラーの小説「浮城物語」を出版させて国木田独歩の出版社を助けている
下の写真説明 上右の一番若い写真は慶応義塾学生の頃 上の中は慶応義塾教員時代
上の左は報知新聞記者 作家として売り出した頃 下の右は宮内庁式部官に任命された頃
下の左は清国特命全権公使に任命された頃 下の中は晩年
大阪毎日新聞(今の毎日新聞)副社長。錦城中学校の校長も務めた
経歴の多彩さや、常に時代の一歩先を見つめて新しいことにチャレンジしたり
鉱山開発に挑戦したり当時の日本人には珍しいマルチ人間
提言者 四教堂塾長 佐藤巧氏
以下佐藤巧氏作成資料から
旧佐伯藩毛利家第13代 毛利高範(1866年〜1939年)は
1866年肥後 宇土藩主細川行真の長子として生まれ12代毛利高謙の養子となり
11歳で毛利藩主となる 19歳で子爵を授けられ華族に
1888年ドイツに留学、帰朝して宮内省式部官に登用されるが
その後佐伯に帰り 佐伯町民として親しく接し、佐伯の文教を進め
産業を興すことを奨励指導した。
1907年一家を挙げて東京に転居したが、大正13年に私財を投じて
毛利家奉公財団をつくり、故郷佐伯の教育産業の振興に公共事業の
援助につとめた 昭和14年東京の自邸で病没 74歳。
最後の藩主 毛利高範は佐伯の為にいろいろ援助してくれた偉人である
毛利家屋敷跡は旧料亭池彦ですがここを修理保存し毛利記念館とし
周辺の景観を城下町らしく修景する構想のお話
佐伯出身や佐伯に縁のある明治の先哲のお話などがありました