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広瀬淡窓14歳の佐伯行き

広瀬淡窓は江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあります
天明2年(1782年)日田の博多屋長男に生まれ、
幼少から学問を好み勉学していました。
病弱だったため 家業は弟広瀬久兵衛に譲りました
現在の大分県知事広瀬勝貞は弟広瀬久兵衛の子孫になります。

淡窓14歳の時 それまで師であった松下筑陰先生が佐伯藩の
四教堂に移られたので先生を慕って佐伯まで旅をします。

今回 四教堂塾のメンバーと 広瀬淡窓が通ったであろう道を
辿って咸宜園から佐伯市まで車でですが 同じ道を走ってみました。

淡窓の佐伯までの行き帰りの行程が
「懐旧楼筆記」に記録されているのです。

「懐旧楼筆記」を読むのは私たちには難しいので
四教堂塾の佐藤巧塾長が現代語訳
漢詩の解読は木許博氏が行い右のような
冊子を作成しました。

2009年4月8日 日田の「パトリア日田ギャラリー」にて開催中の「平野五岳上人生誕200年祭特別展」を見に行きました。
五岳は南画家(文人画家)ですが本職はお坊さんで真宗大谷派専念寺の住職です。
佐伯市善教寺の以前の住職であった小栗憲一(布岳)も多くの詩書画を残していますが
小栗憲一師は、日田の咸宜園に学び、絵は帆足杏雨や平野五岳に学んでいます。
初代佐伯藩主 毛利 高政(もうり たかまさ)は日田から佐伯に転封となり佐伯城を完成城下町を作りました。
このように日田と佐伯は歴史的に深い関係があるのです。

日田市 パトリアにて
懐旧楼筆記の行程を地図に示すと
咸宜園を出発
右の写真は遠思楼
淡窓67歳の時に建てられた2階は書斎
1階は書庫で、晩年の淡窓が好んで
使った建物です。
観月や詩の会の他、門弟と国事を
論じたりもした場所です。

以下のリンクやパノラマ写真はクリックしてご覧ください大きなパノラマ写真が出ます。

咸宜園

  四方に笈を負う(遊学す)
 寛政七年(1795)私が14才のとき、魚町の父の膝下に暮らしていた。前年、松下先生が佐伯に赴かれ、
法蘭上人も亡くなられたので、師と仰ぐ人がいなくなった。
そこで父は 「佐伯へ往って松下先生に師事するよう、日田へ帰った後は再び他国へ遊学するように」 と、
私に命じられた。それで専ら佐伯行きのことを考えていた。
 私は今春より佐伯に遊学することが既に決まっていた。ある日、佐伯城下の米屋七兵衛という者が、
太宰府へ行く途中に我家へ訪れた。これは父が松下先生に私の遊学のことを通知していたので、
先生は七兵衛にその返事をことづけたのである。父は私を七兵衛に会わせて佐伯へ滞留中のことを託された。
 ついに4月1日、家を出立。佐伯は日田から37里(約148キロ)もあり、私にとって初めての遠遊となったが、
そのときは幼弱だったので紀行の詩文も作っていなかった。その後二十年を経て、佐伯の僧で懐澄という者が
日田に来て桂林園に逗留したとき、私は懐旧の詩を10篇作ったので、今ここに附録する。
 4月1日、家を発す。治助という僕(使用人)をしたがえ、竹田の僧で定水という者を伴っていた。この僧は
竹田の矢柄という士人の養父で、隠居の後に禅僧となって諸方に遊歴していた。日田の河島弥右衛門の弟武吉が
養子となり、その緑で河島家に逗留していたが、このたび竹田に帰るというので、父が幼弱な私を心配して同行のことを
託したのである。家より4里(12キロ)、五馬市(天瀬)という所を過ぎる。

以下パノラマ写真はクリックして大きなパノラマでご覧ください。

日田を出て五馬の日田往還道からの眺め

【懐旧の詩−第1】

我年十四試遊方
肥水豊山道路長
五馬原頭廻首望
牧園喬木巳微茫
【解 読】
私は年十四歳のとき四方に遊学しようと考え出かけたが、肥後豊後の道のりは長い。
五馬市の原から眺めると、ふる里の田園の高い樹木もはるかにぼんやりと見えるだけだ。


 この日は宮ノ原という所まで到る予定が、途中雨に遭って果たせず、出口村(天瀬)に宿った。
我家より五里(20km)、出口の里正 (庄屋) 彦右衛門という人は父の知人で、私のために
近くの農家を借りて泊めてくれた。
 二日、出口を発して宮ノ原に至るまで4里(16km)。これより本道を行けば久住に到るまで9里 (36km)、
中間に投宿できる家はないので、間道を通り黒川という所へ向かった。ここは極めて岐路多く旅人は
しばしば迷うようで、我々も道に迷って2〜3里の道をいたずらに歩いて、ついに黒川の手前で日が暮れてしまった。
田中の数軒の民家に至り宿を願ったが断られ、一軒だけ道に迷ったのを憐れみ泊めてくれた。
ここは村でも良い家柄と見えて居宅の構えも特に整っていた。

五馬高原 天瀬のフラワーパークから日田を望む風景

フラワーパークあまがせの花壇

杖立温泉の鯉のぼり

【懐旧の詩−第2】

鏡池東畔雨傾盆
匹馬長噺日色昏
営沸温泉鳴似鼎
隔林認得黒川村
【解 読】
鏡池(宮ノ原)の東はどしゃぶりの雨、一匹の馬がいなないて辺りは夕暮れのうす暗さ。
温泉(黒川)のふき出るさまは鼎(かま)の沸る音に似る(地獄)、
林の向こうにやっと黒川村を見つけた。


 鏡池とは宮ノ原の傍にある池の名である。池の中に古い鏡があったので名づけられた。
黒川には温泉があって地獄とも言われている。
 三日、その地を発して久住原をよぎる。ここは肥後の境内で平原が数十里、
極めてくうかつ(人気のないさみしい谷)である。
 西南に当たって阿蘇山を見る。その傍に猫嶽という山があって、その高さはほとんど阿蘇に匹敵する。
阿蘇は山容明媚だったと記憶するが、その頂より煙を生ずることが多い。猫嶽は山容猛悪である。
 東南に九重山・大船山が並びそびえている。また竹田の城外に祖母山があって、三山とも極めて高く
阿蘇と高さを争っている。しかし阿蘇の名は海外にも聞こえているが、他の山を知る人は少ない。
山は必ずしも高いばかりが良いのではないと知るべきである。

宮の原の鏡池

宮の原(今の小国)の交差点

湧蓋山を見る高原から

黒川温泉手前にある田の原温泉

黒川温泉

【懐旧の詩−第3】

長空香杏鶴呼群
南国山川暗目分
量怪蘇峰煙一鮎
須奥結作満天雲
【解 読】
高い空はるか鶴が群れて鳴いている、ここ南国の山や川は折からの晴天のもと、
くっきりと目にうつる。
ひどく奇怪な形の阿蘇の峰に湧いた一点の煙は、忽ちのうちに満天の雲となって広がる。

この日久住の旅店に投宿した。
 4日、竹田の城下に着く、久住より3里 (12km)。定水と別れ古田代助という人の家に行き投宿した。
代助は古田織部の子孫で一般庶民だが名家である。その兄を喜兵衛といい禄をはむ人で別居している。
代助の子を藤助という。代助兄弟と藤助は私の伯父や父と親交があり、彼らは日田にも往来して私も知っていた。
 代助は生花や茶湯を好む風流人で、白松亭主人と号す。喜兵衛は国学を好み、寛斎と号す。篤実の人である。
私は古田の家に三日ほど留まり、竹田の城下を数カ所遊覧した。今くわしくは記さないが、そのうち
碧雲寺という禅寺に遊んだ。これは竹田の先侯が朝鮮征伐の時に向こうの寺の額を持ち帰って、
この地の額として寺号もその通りに付けたという。
 彼の地にて塚口屋佐助・菱屋孫六・伊藤源兵衛などと会った。総体に日田より竹田までの道中は山坂が多く、
無人の境が多い。
竹田城下もまた山谷の間に険しい地形であるが人家は多い。私はここで初めて城郭というものを見た。

くじゅうの松並木

竹田の碧雲寺

岡藩の墓地

竹田の武家屋敷通り

岡城跡

【懐旧の詩−第4】

千巌萬墾大岡藩
士庶肩摩道隋喧
絶壁雲懸公子館
断崖泉落太夫門
【解 読】
多くの岩や崖にかこまれた岡藩に入った、武士をはじめ一般人が肩をすりあわせるほど多く、
どの道を通ってもにぎやかである。
絶壁の上に雲がかかるほどに高くかまえた高貴な子弟の住居、
断崖にかかる滝が落下する家老の邸宅。

岡とは竹田の別名である。
 竹田に2日留まり7日に至って出発した。ここで主僕2人となり、日田から竹田までは定水の案内があり、
僕(治助)もかって来たことがあったが、竹田より佐伯までは初めての道である。
しかも山谷無人の境を行くことが多く、来る人に道を問いながら進んだ。
私は心細く思って、はじめて旅の悲しさを知り、望郷の念がしきりに起こった。
竹田を去ること8里 (32km)、日が暮れて中ノ谷という所に至り、一軒の人家に投宿した。

中の谷峠

中の谷峠2

峠を下った宇藤木地区

【懐旧の詩−第5】

中谷蓼々人不行
陰雲堆裏宿柴荊
乳狼夜半来尋食
一径菅茅蹟有馨
【解 読】
中ノ谷(峠)はものさびしくて人は通らない、暗い空の下に、
石積をした内側に柴やいばらで囲まれた家に宿をとる。
子に乳を与える狼が夜半に餌を求めてうろつく恐ろしさ、
一本道の萱草の生えた所を歩いて狼の声に肝を冷やした。

ここは極めて山犬の多いところと、後にも聞いた。
8日、中ノ谷を発し、行くこと8里(24km)にして、日暮れに佐伯の城下に着いた。日田より竹田まで21里(84km)、
竹田より佐伯まで16里 (64km)、合わせて37里 (148km) である。
 城下の入口に角石という関所があった。関所の役人が旅人をきか(そしり責める)すること極めて厳しく、
私が松下氏の客であることを聞いて速やかに通してくれた。兼ねて聞き知っていたようである。
先ず米屋七兵衛の家に至る。七兵衛に会うと「松下先生の家は城中にあって旅人が入れる所ではないので、
しかし貴君のことは格別に上へ申し立てているので、2〜3日我家へ留まって待たれるように‥」と、2階に案内して宿にしてくれた。
その妻、その子徳次郎とも会った。その後、松下先生夫婦が七兵衛の家に来られて会うことができた。
 9日、願いの筋は早速かなって、松下の宅に入ることができた。佐伯の城は大手門が南に向かっていたと記憶している。
山城にして城門ならびに侯官(藩主の邸宅)は山下にある。楼櫓の類は山頂に見えている。その規模は
竹田に比べて小さいが、また名城である。
佐伯の先侯(毛利高政)は、我が日田に居たことがあり亀王山がその城跡である。慶長年中にこの地に封を移されたという。
 城門に入ってその左に学校があり四教堂という。これは今の佐伯侯の叔父に扶揺公子という人があり、熊耳先生の門人で
有名な文人だったが、その旧宅を学校にしたものだという。
 松下の宅はその隣にあって長屋の空いたところを住まいにしている。松下は去年この地に来られて末だ屋宅を賜っておらず、
しばらくここに住んでいたのだ。その宅およそ3間にして畳20帖ほどもあったと覚えている。
僕を康平といって去年日田に来たことがあるので見知っていた。
 佐伯城下は海に面しており、浦の数は99浦と呼ばれ土地は狭いが魚塩の利多く、士民はふじょう(豊か)である。
その城を鶴城と号している。

【懐旧の詩−第6】

鶴城楼閣海之濱
松緑沙明不起塵
百浦魚塩民自富
風帆相接浪草津
【解 読】
鶴城の城が誓え海の浜が続く、松の緑、白い砂の眺めは清らかで美しい。
浦々には魚がとれ、塩が造られ住民は富裕にすごす、風をはらんだ舟が
大坂の港とつながっていそがしく通行する。
【懐旧の詩−第7】

絃歌淡蕩動薫風
公殿商連拝水雷
身作国師門下客
遊居三月在城中
【解読】
音楽、歌声がゆるやかにのんびりとひびき香りの良い風が吹く、
公殿南につらなるのは藩の学校(四教堂)。自らは藩校師匠の門下生となって、
遊学(日田から) して三ケ月、鶴谷城ですごしている。

 佐伯学校の儒員(教授)松下先生は祭酒(長官)を勤めていた。その下に四人あり、
野村丈右衛門・山本七兵衛・古田節右衛門・岩崎九兵衛である。
学校の監(取り締まり)を古賀五郎左衛門といい、当時の目付で学監を兼ね、職は儒員の上にあった。
 学校に出入りする者は60〜70人、私は皆知っているが、その内で最も親しかったのは佐野良蔵という人である。
私より6〜7歳年長と思うが、後に恒と名を改めたという。また通安という官医(姓を忘れた)の子に謙次という者がいて、
松下の家に来て書を習っていたので、私とよく同居した。
そのほか山本方蔵・山本直太・池永宗蔵・遠城寺権平次・高瀬繁之丞・文平・百助・長五郎・半五郎など挙げればきりがない。
これらはみな学校生である。
 そのほか知り合った太夫(官位のある者)では、梶西金左衛門、安斎と号す。年頃50位で当時の執権(家老職)を勤める
名誉ある人である。私は松下に随行して度々お会いしたが、請われて贈序(別れの詩)一篇を作ったことがある。
金左衛門の子の藤助も知っている。金左衛門の弟に山口利左衛門という人があり、その子鉄太郎の家で詩会があり、
松下先生と伺ったことがある。
 杉原唯右衛門という人があって、松下先生に連れられて赴いたところ饗応(もてなし)をうけた。
射術を彼に学ぶようにと約束したが果たせなかった。赤沢忠兵衛という人は私を招いてもてなしたが、これは謙次に
緑ある人であった。また阿南宇兵衛は去年日田に使者として来た人で私も面識があり、松下と最も親しくしていた。
【懐旧の詩−第8】

雨谷南壷目走趨
無人逓送不文儒
青雲別有憐才者
敢接安賓賢太夫
【解 読】
西谷南台(佐伯藩小名)は日々かけめぐって働いた、
送り迎えする者はすべて文人儒者であった。若者で青雲の志尋常ですぐれた者があると、
安斎賢太夫(梶西金左衛門) に引き合わせた。

 西谷南台は佐伯城下の小名である。このとき佐伯侯(高標)は東都(江戸)に参勤中で、
君侯が在城ならば必ず私を引見しただろうと人は言う。侯は文学を好み極めて博聞強識の人である。
佐伯は蔵書に富むこと海内無双(日本一)といわれ、全てこれは侯の求め貯えたものである。
 城外に羽明山龍護寺がある。六〜七月の頃と記憶するが、その寺に開帳があり、月夜に舟を浮かべそこに赴いた。
時に城下より納涼かつ寺詣でに舟を浮かべるもの数知れず、管弦謳歌の声が洋々と海面に満ちている。
松下は横笛を得意とし、その弟子と笛を吹いて和み、とても楽しい時を過ごした。
【懐旧の詩−第9】

  羽明山下水初波
  龍護寺前移樟過
  幾隊童船賓浮月
  繁絃争奏竹枝歌
【解 読】
羽明山龍護寺の下、川(番匠川)に川波が立って、寺の前あたりは水樺、
櫓をしきりに動かして通りすぎる。
幾つかの群れの絵書きの船が一斉に月下の川に浮かんでいる。
音楽がしきりに争うように演奏され、この地方の風俗独自の曲が流れる。

 佐伯に留まるうち毎度のように舟遊びをした。舟を浮かべて3里(12km)程の地に爆布(暁嵐の滝)を見に行ったことがある。
往き返り6里 (24km)、私にとって舟行の中で最も遠い体験であった。
船中で江豚という魚が半身を露して波を鼓動 (産卵の様子) しているのを見て目を驚かせた。
 八月に至り、家(日田)より長吉という僕が迎えに来たので、佐伯を発つことになった。日は何日と記していないが、
彼の地を去るときには頗るへい州故郷 (第二の故郷)の感があった。松下先生から送序一篇(別れの詩)七絶一首を贈られた。
米屋七兵衛は関下まで送ってくれ別れた。
 途中荷物が重たくて長吉は肩を傷めたので、荷物を分けて人の家に託し、およそ三日で竹田に着いた。
私は幼弱なので不慮のことに逢ってとても気疲れした。竹田では再び古田氏に2日ほど留まった。
長吉は立ち返って預けた荷物を取ってきた。古田家では浪華の人で亀齢軒という生花師に会った。
竹田を発つとき定水和尚が日田に赴くというので同行した。
初日に久住、第二日は宮ノ原に宿り、第三日に日田に着いた。
 佐伯に遊んだことは必ずしも習学のためではなく、迫々遠方に遊ぶための初歩的な体験をすることにあった。
ところがその後は多病の身となり、遠遊の志は遂げられず、ついに佐伯行が唯一の遠遊となった。
本意に背くこと甚だしく感慨深いものがある。
 佐伯より帰って後 (20年後)、34才のときに、佐伯養賢寺の僧懐澄が来て私の塾に留まった。
私は彼と佐伯の旧遊を語り旧知の人の安否を問えば、過半の人は黄泉(あの世)に赴いたという。
感嘆にたえず十絶を賦(詩を作る)した。
【懐旧の詩−10】

桑梓帰来二十年
偶談往時涙潜然
君言龍鼎山前路
古墓新墳州似煙
【解 読】
故郷日田に帰ってきて二十年を経た。たまたま、昔のことを話すとしきりに涙が落ちる。
君が龍鼎山(養賢寺)の前の路の話をすると、古い墓、新しい塚に眠る故人を思い出し、
あたりの草は煙のようにたなびき繁っていたのを思うといたましい。

 龍鼎山は養賢寺の山号である。養賢寺の境内はとても広く、佐伯侯の菩提所である。
家中の墓も多くそこにあるという。私が佐伯にいたとき養賢寺の隠居に会った。
詩を得意とする人で、共に詩会を開いたこともあった。
                  (佐伯行おわり)

佐伯武家屋敷通り

佐伯養賢寺

「懐旧楼筆記」に書かれていた道を今回辿り 淡窓が見たであろう地域の今の眺めを
パノラマ写真にして見ました。
おかげで約50年ぶりに昔の国道10号線中の谷峠を通って見る事ができました。

私どもにも わかり易く訳していただいた
佐藤巧氏 木許博氏に感謝申し上げます。



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